一橋徳川家下屋敷跡(十万坪)

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP932・コマ番号510/553から一橋徳川家屋敷の変遷について記載されています。P938・コマ番号513/553「抱屋敷 永代新田」がこの地になります。

名所江戸百景 深川洲崎十万坪
[「十万坪」は現在の江東区千田および千石周辺に当たる。享保8年(1723)から行われた干潟の埋め立てにより10万坪に及ぶ新田が開発されたため、「十万坪」と呼ばれていた。高潮の被害が発生するなど居住には適さない土地で、一時幕府が鋳銭場(いせんば)を置いたりしたが、寛政8年(1796)には)には一橋(ひとつばし)徳川家の所有となった。江戸時代後期には、この付近は春の海辺での潮干狩りや初日の出、月見を楽しめる名所として人気を集めるようになり、海岸に面した洲崎弁天社(すさきべんてんしゃ)(現在の洲崎神社)にも多くの参拝者が訪れていた。天保年間に出版された広重の『東都名所』や『江都名所』などのシリーズでは、そのような潮干狩りや初日の出、洲崎弁天社の賑わいの様子が描かれている。
広重は『名所江戸百景』で再び同地を描くにあたり、それまで描いた題材から大きく趣向を変えて、海側からの鳥瞰(ちょうかん)という大胆な構図によって、湿地帯の荒涼とした冬の雪景として描き出した。しんしんと雪が舞う浜辺に静けさが漂う一方で、大きく翼を広げた鷲が上空から獲物を狙う様子は躍動感に溢れており、この静と動の対比が本作の大きな魅力となっている。遠方には、富士山と並ぶ関東の霊峰、筑波山が静かに下界を見下ろしている。  (「名所江戸百景 深川洲崎十万坪 | 歌川広重 | 作品詳細 | 東京富士 …」より)]

[千田地区・宇迦八幡宮のあたりは「十万坪」とよばれる埋立地。
清洲橋通り手前を右折。石島地区を越え千田地区に宇迦八幡宮。当地の開発者千田庄兵衛が建立。千田稲荷神社と呼ばれる。このあたり、千石・石島・海辺・扇橋一帯はその昔、十万坪と呼ばれる埋め立て地。享保8年というから1723年、近江屋千田庄兵衛と井籠屋万蔵の両名により開発。江戸の塵芥をつかい、2年の歳月をかけて完成。庄兵衛の名字をとり千田新田と。寛政8年(1796年)には一橋家の領地となり、一橋家十万石と呼ばれる。  (「東京下町散歩 江東区 (6):木場・東陽エリアへ – 時空散歩」より)]

『深川洲崎十万坪』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景 …

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央左上・一橋殿下屋敷が描かれその左に十万坪ト云と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 深川十万坪ヨリ中川海手迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3,4/4・絵図中央左に千田新田、永代新田、海辺新田入会 十万坪築地 民部卿殿御預知 と記述されています。)

カメラ位置は千石交差点で、この付近一帯が十万坪で、カメラ北西方向が一橋徳川家下屋敷跡と思われます。