三角屋鋪跡

マーカーは三角屋鋪跡です。

三角屋鋪跡(東海道四谷怪談の舞台)
[三角屋鋪は、元禄12年(1699)までの材木置場(元木場)の一部でしたが、同14年(1701)に本所上水請負人の吉右衛門という老の拝借町屋敷となっています。名称の由来は不明ですが、家作を建てたところ、「鱗形」だったのでそのころより三角屋鋪といわれるようになったようです。「御府内備考」三角屋鋪の項によると、「当町里俗三角と唱申侯右老町内鱗形二付右之通相唱 候由申伝侯」とあります。また「葛西志」には次のようにあります。「三角屋鋪は、富久町の南にあり、わづかばかりなる町にて、その形ち三角なれば、たゞちに名とすといへり。」なお、四世鶴屋南北作の「東海道四谷怪談」の四幕直助権兵衛は、この三角屋敷でおきた事件を題材にしているといわれています。(江東区の文化財より)]

与茂七と「三角屋敷」の意味
[表の世界である「忠臣蔵」が忠義の論理を押し付ける建前の世界だと割り切る限り決してこのことは見えてはこないでしょう。武士としての誇りも人間としての誇りも捨て去ってしまった伊右衛門を罰することができる人間は与茂七以外にはあり得ないのです。与茂七は塩冶浪士としてではなく、「誠の人間」として伊右衛門を討つのです。
そう考えて初めてお岩と伊右衛門の筋からまったくはずれてしまう「三角屋敷」の存在の意味が理解されると思います。「三角屋敷」は与茂七を「伊右衛門の刑執行人」として承認するための手続きの場なのです。
怪談芝居としてみると「三角屋敷」は本筋から離れているように見えます。この場は「四谷怪談」のなかでは最も芝居らしい面白さのある場ではありますが、伊右衛門もお岩も登場しないのです。まさか洗濯桶からお岩の手がニュッと伸びてくるのをみせるためだけにこの場がある訳ではないでしょう。「三角屋敷」は最近あまり上演されないようですが、この場がカットされてしまうのも本筋から離れるように見えるせいでしょう。しかし「四谷怪談」において伊右衛門を与茂七が討つ以上は「三角屋敷」なしで鶴屋南北の作意を理解することは不可能だと思います。  (『与茂七と「三角屋敷」の意味:「東海道四谷怪談」』より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央右上方向、丸太橋の右方向に三角ヤシキ丁ヤと記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図左下、油掘と黒江川合流点の北側に富岡バシが描かれ、その北側丸太バシ右下に三角ヤシキが描かれています。)

カメラ南東方向のビルがある一角が三角屋鋪と称される土地です。

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