上田藩松平(藤井)家下屋敷跡

マーカーは上田藩松平(藤井)家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP685・コマ番号386/553から上田藩屋敷の変遷について記載されています。P692・コマ番号390/553「下屋敷 深川扇橋 深川区東大工町」がこの地になります。

松平忠周
[松平 忠周(まつだいら ただちか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。別名に忠徳(ただのり)。初め丹波国亀山藩3代藩主、のち武蔵国岩槻藩主、但馬国出石藩主、信濃国上田藩初代藩主。伊賀守流藤井松平家3代。官位は従四位下・伊賀守、侍従。幕府では側用人京都所司代老中を歴任した。
万治4年(1661年)4月19日、丹波亀山藩主で藤井松平家伊賀守流の初代・松平忠晴の庶出の三男として誕生した。聡明さを父から愛されたと伝わる。
異母兄の2代藩主・忠昭とは歳が離れていた上に、忠昭は相続時に嗣子がおらず、よって忠晴の命により、忠昭の相続時にその養嗣子と定められた。天和3年(1683年)に忠昭が死去した際、兄の晩年に産まれた遺児・石松(忠隆)の相続を推す家臣もいたが、亡父・忠晴の遺命通りに家督を継いだ。
上田藩に入封した後、農民に明細帳提出・年貢の籾納から米納への切り替えを求め、複数の村の庄屋を監督する村役人や大庄屋を設置し、農村統制を厳しく行った。
5代将軍・綱吉に近侍して側用人にまで出世するが、家宣が6代将軍となると、側用人を免ぜられて幕政から遠ざけられる。その後、吉宗が8代将軍になると再登用され、京都所司代を経て老中に起用された。
享保13年(1728年)5月1日、江戸で死去した。享年68。跡を三男の忠愛が継いだ。吉宗もその死を悼み、若年寄(5月15日以降は老中)大久保常春に銀300枚を持たせ、弔慰に遣わした。  (wikipedia・松平忠周より)]

[「元加賀」という地名は、江戸の初期、江東区三好、白河のあたりが加賀金沢藩の下屋敷となっていたことに由来するとのこと。藩の屋敷は入れ替わり、幕末にはここは上田藩の屋敷となっています。
元加賀小学校の敷地を眺めると広大ですが、上田藩抱屋敷の広さはその比ではありません。小名木川から小学校の手前までが全て上田藩の敷地です。  (「[15/02/28]元加賀小学校付近」より)]

国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図中央・小名木川、横川交点左上に松平伊賀守(松平忠固)下屋敷が描かれています。)

カメラ西方向元加賀公園交差点江で、この周辺からカメラ北西方向北側は小名木川、西側は白河三丁目交差点先までが上田藩松平(藤井)家下屋敷跡になると思います。(上田藩松平(藤井)家下屋敷跡範囲:江東区白河3丁目4,9,江東区白河4丁目2~4,7,9,江東区三好4丁目6,7)