下妻藩井上家下屋敷跡

マーカーは下妻藩井上家下屋敷跡です。

関連リンク – 下妻藩井上家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP892・コマ番号490/553から下妻藩屋敷の変遷について記載されています。P894・コマ番号491/553「下屋敷 本所猿江」がこの地になります。

井上正兼
[井上 正兼(いのうえ まさかね、文政6年(1823年)8月 – 明治11年(1878年)8月7日)は、常陸下妻藩の第13代藩主。井上家宗家当主である遠江浜松藩主・井上正甫の八男。官位は従五位下、伊予守。
安政3年(1856年)9月10日、先代藩主で甥の正信の死去により、下妻井上家へ養子入りして家督を相続した。同年11月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・伊予守に叙任する。元治元年(1864年)、水戸藩天狗党の乱の鎮圧に当たったが、逆に天狗党に攻撃されたため下妻陣屋を自焼して逃れた。慶応2年(1866年)11月23日、次男の正巳に家督を譲って隠居した。  (wikipedia・井上正兼より)]

井上正巳
[井上 正巳(いのうえ まさおと、安政3年1月5日(1856年2月10日) – 大正10年(1921年)9月14日)は、常陸下妻藩の第14代(最後)の藩主、子爵。第13代藩主・井上正兼の次男。官位は従五位下、伊予守。
次男だったが、兄の孝丸が病弱を理由に廃嫡されたため、世子となる。そして慶応2年(1866年)11月23日の父の隠居により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめは幕府側に与して江戸城清水門の警備を務めた。後に新政府側に寝返ろうとしたが、旧幕府からの圧力を受け、一部の藩士が会津藩との戦いで会津側に与した。新政府からそれを咎められて、改易に処されかけたが、家老が懸命に弁明し、さらに佐幕派であった今村昇らを殺害したため、改易を免れた。
明治元年(1868年)11月25日、叙任する。明治2年(1869年)6月の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。  (wikipedia・井上正巳より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図四つ切左下・重願寺右に井上伊予守(井上正兼)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は猿江一丁目公園前で、カメラ南西方向が下妻藩井上家下屋敷跡になると思います。