みつまた(中州の渡・ 清洲橋)

マーカーはみつまた(中洲)です。

みつまた(中洲)
[中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目にあたるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由(6代目、馬込興承)により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。
1886年(明治19年)再び埋め立てられ、中洲河岸が成立、後に中洲町となった。  (wikipedia・日本橋中洲より)]

中州の渡し
[現在の清洲橋の位置にあった渡し。現在日本橋中洲は内陸だが、渡しのあった当時は水路があり、まさに中洲で無人の荒地だった。1873年(明治6年)、深川佐賀町に住む青木安兵衛が東京府知事の許可を得て始めたが、はじめ日本橋側の渡船場は箱崎、浜町付近で、中洲の開発が始まる明治40年ごろまで中洲は通過地点でしかなかったと考えられる。清洲橋の架橋に伴い廃された。1986年に大川口の渡し、安宅の渡しとともに江東区の史跡に指定された。  (wikipedia・隅田川の渡しより)]

清洲橋
[清洲橋(きよすばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道474号浜町北砂町線清洲橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。
関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあったヒンデンブルグ橋(Deutz Suspension Bridge)の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。
もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。
2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。
竣工当時の清洲橋・wikipedia-photo、東京都中央区から(2005年9月)・wikipedia-photo  (wikipedia・清洲橋より)]

みつまた資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図右下・田安殿下屋敷右側に三ッマタ、中洲と記述されています。)

[名所江戸百景・みつまたわかれの淵(現在の中央区日本橋中洲付近の隅田川)wikipedia-photo]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「新大橋三派」(2-12)[図会手前に新大橋、左に永代橋、右の流れが箱崎川で、描かれる橋が中州に架かる永久橋です。また、永久橋手前右に浜町川河口に架かる川口橋も描かれています。]、「新大橋・三派解説・ページ中央に新大橋、左ページ中程に三派」(2-13)

カメラ位置は清洲橋で、カメラ西方向がみつまた、中州になります。

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