竪川(五之橋)

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五之橋
[五之橋 – 同橋上:明治通り(都道306号)]

[●万治2年(1659)竪川開削時に一之橋~六之橋が架橋された。
●その後五之橋については利用が少なく、六之橋と共に貞享元年(1684)に「御入用無益之場所」として 取り壊し、船渡しとなった。
元禄8年(1695)そばに名所「五百羅漢寺」などが建てられ、「五つ目渡し」、「羅漢の渡し」と してにぎわった。
●尾張屋板江戸切絵図-本所絵図、本所深川絵図(文久2年、1862)に「五ツ目渡シ」あり。
明治12年(1879)に再架橋。
昭和3年(1928) 長30.3m、幅21.9m 3径間鋼製桁橋 震災復興橋梁
●橋の上部を首都高速7号小松川線が横切る。  (「97五之橋 – 江東区内の橋データの表示」より)]

[竪川は江戸前期(一説では1659年=万治2年)、本所築地奉行の山崎四郎左衛門重政、徳山五兵衛重政により開削された運河。隅田川から旧中川まで全長1里8町(約4.8キロメートル)。一から五までの番号の橋も同時期に創架された。
 江戸末期の「嘉永本所地図」改訂版(1855年発行)で竪川を見ると、番号の橋以外は「辻橋」があるだけで、現存するほかの橋はすべてそれ以後にできたことを裏付けている。ただこの地図には「五之橋」「六之橋」も記されていない。それは「五之橋はその後架けられた六之橋とともに取払われた」(日本歴史地名大系=2002年発行)からだ。
 江東区文化財専門員によると、周辺が農地だった二つの橋は1670−80年代(一説では1684年=貞享元年)に「往来が極端に少なかったため」取り除かれたという。五之橋の跡地では「五ノ橋渡」が永らく運行されたが、1903年(明治36年)再び橋が架かり、以後数回の架け替えを経て今日に至る。また六之橋は1911年に再び架設され、1955年、やや西側に新六之橋が架かると同時に取り外された。  (「?なんで?? 竪川の橋 | 東都よみうり」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形」(絵図右端に堅川が描かれ、五之橋は五ッ目舟渡シとなってます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図

カメラ位置は五之橋です。

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