今治藩松平(久松)家深川下屋敷跡

マーカーは今治藩松平(久松)家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP362・コマ番号225/553から今治藩屋敷の変遷について記載されています。P364・コマ番号226/553「下屋敷 深川加賀新田」がこの地になります。

松平定房
[松平 定房(まつだいら さだふさ)は、江戸時代前期の大名。伊予国今治藩初代藩主。定房系久松松平家初代。官位は従四位下・侍従。
遠江国掛川藩主・松平定勝の五男として誕生。慶長16年(1611年)、初めて伯父の徳川家康に拝謁する。
元和7年(1621年)、従五位下・美作守に叙任される。寛永2年(1625年)、伊勢長島7000石を賜う。同12年(1635年)、伊予今治城3万石を賜う。正保4年(1647年)、南蛮船の長崎入港に際し、兄で長崎探題・松平定行に従い長崎へ出向する。寛文5年(1665年)、江戸城代役(大留守居)を命ぜられ、武蔵国下総国常陸国のうち1万石を加増される。さらに従四位下に昇進する。寛文9年(1669年)、鷹司房子入内に際し、4代将軍・徳川家綱の名代として参内し、侍従に昇進する。
延宝2年(1674年)、江戸城代役を辞職し隠居、薙髪し安心軒と号す。延宝4年(1676年)6月28日、今治で卒去する。享年73。松源院で葬儀が行われ、実相院殿憲誉安心大居士と贈られる。今治国分山へ葬られる。
正室・内藤氏は元禄2年(1689年)、江戸で卒去した。長栄院殿相誉安貞清憲大法尼と贈られ、江戸深川霊巌寺に葬られる。  (wikipedia・松平定房より)]

松平定剛
[松平 定剛(まつだいら さだよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。伊予国今治藩7代藩主。定房系久松松平家7代。
明和8年(1771年)6月30日、6代藩主・松平定休の長男として誕生。天明6年(1786年)12月に従五位下、壱岐守に叙任する。寛政2年(1790年)4月5日、父の隠居により跡を継いだ。藩政においては文化5年(1808年)から文政7年(1824年)まで奏者番を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力した。文化14年(1817年)5月には藩校・克明館を創設し、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及などを図った。瀬戸浜塩田の着工なども行なっている。  (wikipedia・松平定剛より)]

国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図中央上方向・法禅寺右下に松平壱岐守(松平定法)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は江東区白河3丁目8北東角交差点で、カメラ南南東方向江東区白河3丁目2の中央部付近までが今治藩松平(久松)家下屋敷跡になると思います。(今治藩松平(久松)家深川下屋敷跡範囲:江東区白河3丁目2~5,8,9)