伊能忠敬住居跡碑

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伊能忠敬住居跡
[わが国で、はじめて機械を使用して正確な日本実測地図を作成した伊能忠敬は、深川黒江町(現在の門前仲町1-18)に住み、ここを測量の原点としました。測量の際には富岡八幡宮(『伊能忠敬象』がある)にお参りをして旅立ちました。忠敬は、延享2年(1745)上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡)に生まれ、浅草竹町(台東区)の天文方暦局の高橋至時天文学や数学を学びました。そして、寛永12年(1800)から文化12年(1815)まで10回の測量を行い、文化15年(1818)4月74歳で亡くなりました。遺体は、遺言により源空寺(台東区東上野)の師高橋至時の隣に葬られ、爪と髪は佐原市観福寺に葬られています。  (「深川・門前仲町駅周辺 – 江東区 」より)]

[佐原の伊能忠敬記念館に仁杉五郎八に宛てた文書が所蔵されていることがわかり、同館のご厚意で撮影させていただいた。 文政4年(1821)9月、長年にわたる全国測量と{大日本沿海與地全図」完成の功により、伊能忠敬(三郎右衛門)が幕府から江戸箔屋町(現在の日本橋高島屋付近)に屋敷を拝領した時の文書である。  (「仁杉氏・一杉氏 出自考」より)]

[伊能忠敬と間宮林蔵の関係については – 「伊能家文書紹介 20 忠敬と間宮林蔵」で紹介されています。そのなかで『伊能家の跡継ぎである孫の忠誨は祖父忠敬の死後、五人扶持をもらい、そのほかに85坪の町屋敷を箔屋町というところに拝領した。何軒かの長屋になっていてその家賃を収入として受け取った。忠誨は天文方雇のまま佐原に戻って家業を継いでいたので、この長屋の家賃を林蔵が預かって、一時家政の面倒もみていたらしい。』と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図右上・日本橋通三丁目下に箔屋丁が描かれています。)

伊能忠敬住居跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南南東方向・街灯左に伊能忠敬住居跡碑があります。

伊能忠敬
[伊能 忠敬(いのう ただたか、1745年2月11日(延享2年1月11日) – 1818年5月17日(文化15年4月13日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は、三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。
1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。日本で初めて金星子午線経過を観測した人物である。1883年(明治16年)、贈正四位
1745年(延享2年)1月11日、神保貞恒の次男として上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。幼名は三治郎。6歳の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・横芝光町小堤)の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残る。その後生家を叔父(母の弟)が継ぎ、三治郎が10歳の時に父の元に引き取られる。
1762年(宝暦12年)、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根川水運などにも関っていた。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている。また、かなりの財産を築いた。現存するもっとも古い唐木仏壇の一つに、伊能忠敬家の仏壇(18世紀頃)がある。
香取市佐原には伊能忠敬旧宅をはじめ、伊能忠敬記念館、1919年(大正8年)建造の伊能忠敬銅像、その名をとった「忠敬橋(ちゅうけいばし)」などがある。また、旧宅近くの香取市立佐原小学校の校歌には忠敬翁が歌われており、命日の5月17日には忠敬祭(ちゅうけいさい)として墓参などの行事が行われている。
1794年(寛政6年)12月、50歳の時に、家督を長男景敬に譲り隠居、翌年江戸に出る。江戸幕府天文方高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。その際、天体観測を利用し地球の大きさを仮定するが、師匠である高橋至時に、基準とする距離が短過ぎ不正確である、あるいは江戸と蝦夷地ほどの距離を元にすれば推測も可能であろうと一笑に付される。この事が、忠敬が後年測量の旅に出るきっかけの一つともなった。
1800年(寛政12年)、56歳の時に、第1次測量を開始。これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。幕府は、忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされる。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東東北地方において行われた。宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた。ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。また、この際に地図投影に必要な地球の大きさを見積もるため、江戸深川から野辺地に至る路線の測量により、緯度1度に相当する子午線弧長がおよそ28里2分(110.7km程度)に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測した。この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差であり、忠敬の測量の正確さの証左とも言える。
こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。完成したのは忠敬没後の1821年(文政4年)であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。墓地は上野源空寺(源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓が並んでいる)。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。
八丁堀亀島町に転居前には深川界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていた。2001年、境内に銅像が建てられている。  (wikipedia・伊能忠敬より)]

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