マーカーは会津藩松平(保科)家深川下屋敷跡です。
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松平容保
[松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。
天保6年(1835年)12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれる。幼名を銈之允と称す。
弘化3年(1846年)4月27日、実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第8代藩主・容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。
嘉永5年(1852年)2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主・肥後守となる。
万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こる。老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は、問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎・原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる。
閏8月1日京都守護職に就任する。この時、容保は時疫にかかって病の床にあり、再三これを固辞した。容保は「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命(将軍家茂の命令)と藩祖(保科正之)の遺訓(前述の会津藩家訓)を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は(徳川)宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と断り続けたが、政治総裁職松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公(正之)ならばお受けしただろう」と言って詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。
文久2年12月24日、会津藩兵を率いて上洛する。この日は道の両側にその行列を見る市民が、蹴上から黒谷まで隙間なく続いた。容保は宿舎より先に本禅寺を休息所として旅装を礼装に改め、関白近衛邸にて天機(天皇の御機嫌)を伺い着任の挨拶をした。その後、金戒光明寺に入った。この行動が折り目正しいと、都人から好感と評価を得ることになった。
京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り、暴徒の警戒を行った。その頃、京は過激な論を唱え暗殺と脅迫を手段とする攘夷派浪士が横行する巷と化し、治安の最も下がった状態にあり、日に2、3度は暗殺が行われ、その首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり、邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。しかし容保はすぐには鎮圧にはあたらず、「言路洞開」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らないため、話せばわかると考えた容保は「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出して発令し、幕府へも建議した。しかしこの時、一橋慶喜は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらっている。肥後の轟武兵衛、長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出た時も、慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが、容保だけは寛大の処置を置き、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策だと論じている。
2月7日、山内豊信の館に首と脅迫文が投げ込まれる。容保はこれを聞いて安心できず、病を押して鷹司輔煕のもとへ伺い「この輩は天威を恐れず尊貴を侮る。罪万死に当たるが、その根底をきわめてみれば上下の事情が隔たりすぎていることによる。ゆえにあまねく令を発して言路を開く方法をとることにした。それでもなお令に従わない者、人心を惑乱させる振る舞いの者あれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに朝廷内においてもみだりに動揺されることのないように」と述べた。
2月22日、足利三代木像梟首事件が起こる。攘夷派浪士により等持院にある足利将軍3代の木像の首が引き抜かれ、三条大橋に晒された。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。これには容保も激怒し「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることはそのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば先に言路洞開にて進言を許しているのにその令を奉さずこのような凶暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず」として町奉行に追捕を厳命した。
2月25日、過激浪士は京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保は「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」とした。
以後、治安維持は警戒を強めていく。ある家臣が容保に「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」と進言したところ、容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と家臣を叱った。容保は家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい、職の責任を重んじ尽くした。 (wikipedia・松平容保より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央左・小名木川上に松平肥後守(松平容保)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は江東区扇橋2丁目10南東交差点で、カメラ位置周辺を含め、西方向が会津藩松平(保科)家深川下屋敷跡になると思います。(会津藩松平(保科)家深川下屋敷跡範囲:江東区扇橋2丁目10~14)