マーカーは冬木弁天堂です。
冬木弁天堂
[冬木弁天堂は、木場の材木豪商、冬木弥平次が宝永二年(1705年)、茅場町(中央区)から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置しました。そのためいまでもこの町を冬木町といいます。この弁財天は、等身大の裸形弁天にして、毎年一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災に焼失しました。冬木弁天は、明治三年から一般に参詣を開放しました。現在の弁天堂は、昭和二十八年に再建されました。尾形光琳が、冬木家に寄寓中、冬木家の妻のために書いた秋草の小袖が、上野国立博物館に保存されています。冬木弁天堂は、古義真言宗に属しています。 (「弁財天 冬木弁天堂|深川七福神巡り」より)]
[宝珠山冬木弁天堂は、材木商冬木五郎右衛門直次が承応3年(1654)に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町(中央区)の邸内にまつり、宝永2年(1705)にその孫弥平次がこの地に移したと伝えられています。深川七福神のひとつ弁財天として親しまれています。 (「猫のあしあと – 冬木弁天堂」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図四つ切左下中央付近に冬木町寺裏ト云と記述されています。)
カメラ北北東方向が冬木弁天堂です。
冬木弁天堂前のカメラで、カメラ西北西方向に戦災殉難殃死者供養碑があります。