吉田藩松平(大河内)家深川下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP422・コマ番号255/553から豊橋藩(吉田藩)屋敷の変遷について記載されています。P428・コマ番号258/553「下屋敷 小名木川 南葛飾郡」がこの地になります。

松平信明
[松平 信明(まつだいら のぶあきら)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。三河国吉田藩3代藩主。江戸幕府老中・老中首座を務めた。松平伊豆守系大河内松平家7代。
宝暦13年(1763年)2月10日、3代藩主・松平信礼の長男として生まれる。幕府公認の記録である『寛政重修諸家譜』では宝暦10年(1760年)生まれとしているが、これは信明が側室の出生であるところから、嫡子として幕府に届け出るにあたって年齢(官年)を水増ししたためである。
明和7年(1770年)、父の死去により家督を継ぐ。しかし幼少のため、叔父の本庄道揚が補佐し、明和8年(1771年)の道揚の死後は松平正升本庄道利が補佐した。安永6年(1777年)に従五位下・伊豆守に叙位・任官された。
天明4年(1784年)2月14日に奏者番に任じられる。天明8年(1788年)2月2日に側用人に任じられ、4月4日に老中に任じられ、松平定信寛政の改革をすすめるにあたって、定信と共に幕政に加わった。5月1日に従四位下に昇叙し、8月に侍従に任官される。
寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した。寛政11年(1799年)に東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく享和2年(1802年)に非開発の方針に転換し、蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した。しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ、享和3年(1803年)12月22日に病気を理由に老中を辞職した。
信明辞職後、後任の老中首座には戸田氏教がなったが、文化3年(1806年)4月26日に死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった。しかし牧野や土井利厚青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され、文化3年(1806年)5月25日に信明は家斉から老中首座として復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている。ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている。
文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地として永久上知した。また幕府の対応に憤激したレザノフの指示を受けた部下のニコライ・フヴォストフが単独で文化3年(1806年)9月に樺太の松前藩の番所、文化4年(1807年)4月に択捉港ほか各所を襲撃する事件も起こり、信明は東北諸藩に派兵させて警戒に当たらせた(文化露寇(フヴォストフ事件))。またこのような対外的緊張から11月からは江戸湾防備の強化に乗り出し、砲台設置場所の選定なども行なっている。
文化5年(1808年)8月15日にはイギリスによるフェートン号事件も発生し、文化8年(1811年)には蛮書和解御用を設置して外国知識の吸収を図った。この文化8年(1811年)にはゴローニン事件も起きている。
経済・財政政策で信明は緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた。しかし蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落し、文化12年(1815年)頃に幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという。
文化14年(1817年)、在職中に危篤に陥る。これを機に将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企て、側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて寺社奉行阿部正精大坂城代京都所司代などの歴職を飛び越えさせて老中に抜擢した。家斉が信明以下の幕閣の口煩い者、即ち寛政の改革を踏襲する者を遠ざけ、自身の都合のよい人材を抜擢した形だが、当然のように彼らの老中在任中は空前の賄賂政治が横行することになった。
信明は同年8月16日(幕府の届出は8月29日)に死去した。享年55。跡は次男の信順が継いだ。  (wikipedia・松平信明より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央左端・小名木川上に松平伊豆守(大河内信古)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 深川十万坪ヨリ中川海手迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切左上・小名木川通り上に松平伊豆守(松平信璋)、抱屋敷と記述されています。)

カメラ位置は新開橋南詰交差点で、カメラ南方向道路右沿いから左方向一帯が吉田藩松平(大河内)家下屋敷跡になると思われます。