土佐藩山内家深川下屋敷跡(中浜万次郎住居跡・左行秀鍛錬場跡)

マーカーは中浜万次郎住居跡案内板です。

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土佐藩下屋敷(深川屋敷)跡(中浜万次郎住居跡)
[中浜万次郎は、幕末に通訳・翻訳などを行い、ジョン万次郎の名で知られています。文政10年(1827)土佐国高知県)中ノ浜で生まれ、明治31年(1898)71歳で死去し、墓は豊島区雑司ヶ谷霊園にあります。
万次郎は14歳の時、漁に出て遭難し、米国の捕鯨船に救助され、以後、嘉永4年(1851)に帰国するまでの大半を米国で過ごし、教育を受けました。帰国後は土佐藩幕府に登用され、明治元年(1868)再び土佐藩に登用されました。明治2年から明治13年(1880)まで、砂村にあった土佐藩の下屋敷に住み、開成学校(東大の前身)の教授などを勤めました。  (「城東・砂町地区|江東区」より)]

左行秀鍛錬場跡(さのゆきひでたんれんじょうあと)
[所在地 江東区北砂1-2先
 左行秀は、幕末の著名な刀工で、文化10年(1813)筑前国福岡県)で生まれ、明治20年(1887)に75歳で没しました。豊永久兵衛(のち久左衛門)ともいい、南北朝時代の名工「左門字」の流れを汲む意から「左」の号を用いました。
 天保年間(1830~1844)の初めに江戸へ出て、刀工清水久義に入門し、弘化3年(1846)江戸から土佐(高知県)へ移り、翌弘化4年(1847)より土佐藩の城下で鍛刀を始めました。安政3年(1856)5月、三人扶持で刀工・鍛冶職として土佐藩に召し抱えられました。安政7年(1860)2月に江戸出府が命じられ、当時この付近にあった土佐藩下屋敷に滞在し、鍛錬場を築き刀剣を製造しました。ここで鍛刀した作品には「於東武土佐藩左行秀造之 慶応3年2月日」「於東武砂村元八幡宮北左行秀造之 慶応3年2月吉日」などの銘が見られます。また、下屋敷内では当時鉄砲の製造も行っており、これに関わったともいわれています。明治元年(1868)土佐へ戻り、明治3年(1870)まで作刀を続けました。
 ここに残る石標柱は、左行日での鍛錬場跡を示すために、東京百年の記念事業として昭和43年(1968)に建てられたものです。
刀工 左行秀作刀旧跡
左行秀は江戸時代末期復古調の刀工として有名であった 行秀は北九州に生れ刀工となり江戸にでて水心子正秀の門人清水久義の弟子となりのち土佐藩の藩工となった 国鉄小名木川駅西側付近にあった土佐藩主山内家の下屋敷において作刀したことがある 行秀の作刀のなかに富賀岡八幡宮北辺おいてと銘のあるものはこの下屋敷において作刀したことを伝えている 行秀は明治初年(1953)高知県に帰り明治18年(1885)74歳をもって死去した
 昭和43年(1968)10月1日 江東区第28号  (「左行秀鍛錬場跡(さのゆきひでたんれんじょうあと)|東京都 …」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図中央右端に松平土佐守(山内容堂)下屋敷が描かれています。)

中浜万次郎宅跡(ジョン万次郎旧居跡) – Google Map 画像リンク」「左行秀鍛錬場跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は区立北砂小学校正門前で、カメラ西北西方向に中浜万次郎住居跡案内板があります。

カメラ位置は三島橋東詰めで、カメラ北東方向に刀工 左行秀作刀旧跡碑と案内板があります。