マーカーは土浦藩土屋家下屋敷跡です。
関連リンク – 土浦藩土屋家上屋敷跡、土浦藩土屋家下屋敷跡(御薬園坂)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP642・コマ番号365/553から土浦藩屋敷の変遷について記載されています。P647・コマ番号367/553「下屋敷 小名木川 深川区富川町」がこの地になります。
[神田小川町にあった土浦藩土屋家上屋敷は文久 3 年 (1863) に幕府の洋式歩兵部隊の屯所となったために小名木川の下屋敷を本宅としました。明治 4 年 (1871) 廃藩置県に伴い小名木川屋敷の一部が収用されましたが、残りの土地には引き続き住んでいました。大きなお屋敷で小名木川から水を引き入れた回遊式の立派な大名庭園でした。
収用された土地に内国通運深川支店が設置され、同所で通運丸の造船、修理が行われ、またここでは浅い喫水船の研究開発なども行っています。その他、浅野セメントの製樽部も設置されています。
土屋家は明治 41 年 (1908) に深川区富川町 3 番地 ( 現森下 4 丁目 ) の小名木川屋敷から豊多摩郡千駄ヶ谷町隠田 ( 現渋谷区 ) に転居しました。
跡地に設置されたのが府立実科工業 ( 現墨田工業高校 )、深川消防署 ( 現森下出張所 )、そして工場拡大した「東京堅鐡製作所」( 職工数 168 名 ) でした。 (「モダン館だより – 深川東京モダン館」より)]
土屋数直
[土屋 数直(つちや かずなお)は、江戸時代前期の大名。常陸土浦藩の初代藩主。江戸幕府の若年寄・老中である。
慶長13年(1608年)、上総久留里藩の初代藩主・土屋忠直の次男として生まれる。家督は兄の利直が継承、数直は元和2年(1616年)に2代将軍徳川秀忠に拝謁し、元和5年(1619年)から秀忠の命令で徳川家光に仕えた。元和8年(1622年)に家光の近習に任じられる。
寛永元年(1624年)に500俵取りに任じられ、12月28日に従五位下・大和守に叙任される。寛永5年(1628年)に上総に200石を与えられる。寛永9年(1632年)に進物番に任じられ、寛永10年(1633年)2月7日に常陸で200石を与えられる。寛永18年(1641年)7月5日に書院番組頭に任じられ、後に駿府城番となる。
慶安元年(1648年)10月27日に小姓組番頭に任じられる。慶安4年(1651年)11月21日に1000俵を加増される。承応2年(1653年)9月18日に久世広之・牧野親成と共に4代将軍徳川家綱の側衆に任じられ、明暦2年(1656年)12月21日に2000俵取りに加増される。明暦3年(1657年)12月25日に常陸宍戸で1300石を加増される。寛文2年(1662年)2月に合計1万石を与えられて若年寄に任じられる。寛文4年(1664年)6月13日に5000石を加増され、寛文5年(1665年)12月23日に老中に任じられ、他の老中と共に文治政治に取り組むことになる。
寛文6年(1666年)7月28日に2万石を加増され、寛文9年(1669年)6月25日に1万石を加増され、合計4万5000石の大名となる。寛文10年(1670年)12月29日に侍従に任官される。翌寛文11年(1671年)に伊達騒動の当事者達を召喚、審問を行った。
数直は山鹿素行を藩邸に招き、林鵞峰と親交を結ぶなどの文化人でもあった。ただし、老中として江戸に在府することが多かったため、藩政は長男の政直に任せている。延宝7年(1679年)4月2日に死去。享年72。跡を政直が継いだ。 (wikipedia・土屋数直より)]
土屋政直
[土屋 政直(つちや まさなお)は、土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に9万5000石となる。奏者番、大坂城代、京都所司代を経て老中に就任、元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中らに口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。
享保4年(1719年)、老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、3年後に82歳の高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。
茶道を嗜み、遠州流の門人の一人でもある。また、赤穂事件の関係者であった従甥の土屋逵直の次男好直を養子に迎えている。 (wikipedia・土屋政直より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図中央小名木川上に土屋采女正(土屋寅直)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は森下五丁目交差点で、カメラ南方向は小名木川、東は東京都立墨田工業高等学校から西方向・森下四丁目交差点通りまでが土浦藩土屋家下屋敷跡と思われます。(土浦藩土屋家下屋敷跡範囲:江東区森下4丁目1~9,江東区森下5丁目1)