安志藩小笠原家深川下屋敷跡

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小笠原長興
[小笠原 長興(おがさわら ながおき)は、播磨国安志藩初代藩主。
正徳2年(1712年)2月26日、豊前中津藩の第4代藩主・小笠原長円の次男として生まれる。享保元年(1716年)、第5代中津藩主で兄の長邕が早世したため、中津藩は無嗣改易となった。ただし、小笠原氏祖先の秀政忠脩親子の功績(大坂の陣天王寺・岡山の戦いで戦死)を考慮した幕府によって特別に、長邕の弟・長興が同年10月12日、宍粟郡佐用郡など播磨安志藩1万石に減知・移封の上で、家の存続が許された。
藩政としては、安志陣屋(現在の姫路市立安富中学校)の建設や学問の奨励によるのちの明倫堂創設、講師を招聘するなどの事跡がある。
生来から病弱で継嗣もなかったため、享保15年(1730年)3月29日に幕府に対して所領の返還を申し出た。しかし、幕府は特別に養子を取ることを許し、同年12月11日に一族の第3代小倉藩主・小笠原忠基の次男・長逵に家督を譲って、長興は隠居した。その後は純覚と号した。
天明6年(1786年)6月24日に死去した。享年75。  (wikipedia・小笠原長興より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央左・小名木川上に小笠原大膳大夫(小笠原忠幹)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は江東区扇橋2丁目8南東角交差点で、カメラ北北西方向小名木川までが安志藩小笠原家深川下屋敷跡になると思われます。(安志藩小笠原家深川下屋敷跡範囲:江東区扇橋2丁目8~11)