富岡橋(閻魔堂橋)跡

マーカーは富岡橋(閻魔堂橋)跡です。

富岡橋(閻魔堂橋)
[富岡橋(閻魔堂橋)は油掘に架けられていた橋で、通称名の由来は橋が架かっていた北詰めにある閻魔堂(法乗院)による。
富岡橋(閻魔堂橋)の位置は、「東京市及接続郡部地籍地図. 下卷」の「254/531」には、新設された電車通りに黒亀橋が描かれ、富岡橋は描かれていませんが、黒亀橋に西側に富岡橋があったと思われます。]

[河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の「世話物」で、主人公の名前をから通称『髪結新三(かみゆいしんざ)』とよばれています。
新三は、白子屋(しらこや)の番頭忠七(ちゅうしち)をそそのかして、店の娘のお熊を連れ去ります。新三は、掛け合いにきた親分の弥太五郎源七(やたごろうげんしち)を追い返しますが、続いてやって来た家主の長兵衛(ちょうべえ)には歯が立たず、30両と引き換えにお熊を手放すことにします。しかし長兵衛は、新三をやり込めて15両と鰹(かつお)を半分せしめます。やがて新三は、顔を潰された恨みから復讐の機会を狙っていた源七に待ち伏せをされて討たれます。
通常、忠七をそそのかす「白子屋見世先の場(しらこやみせさきのば)」から、源七の復讐を受ける「深川閻魔堂橋の場(ふかがわえんまどうばしのば)」までが上演されます。  (「歌舞伎への誘い | 『梅雨小袖昔八丈』」より)]

富岡橋資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央右方向、黒江町町屋右上に富岡橋が描かれています。この絵図には奥川橋は描かれていない。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左下、油掘と黒江川合流点の北側に富岡バシが描かれ、左方向に奥川ハシが描かれています。)

「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町西大工町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」[地図四つ切右下・十五間川(油堀)に富岡橋が描かれています。]

カメラ西北西方向・小公園のトイレ前に「髪結新三閻魔堂橋の場」の案内板があり、橋は公園の西方向・高速道路下にあったようです。また、カメラ東北東方向が橋の通称名の由来となる閻魔堂(法乗院)です。

カメラ東北東方向に江戸時代の富岡橋(閻魔堂橋)が架かっていたようで、カメラ西南西方向には奥川町に架けられた奥川橋があったようです。

カメラ位置は黒江川に架かっていた奥川橋跡付近です。

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