小倉藩小笠原家深川下屋敷跡

マーカーは小倉藩小笠原家深川下屋敷跡です。

関連リンク – 小倉藩小笠原家上屋敷跡小倉藩小笠原家中屋敷跡小倉藩小笠原家下屋敷跡(小笠原伯爵邸)小倉藩小笠原家抱屋敷跡亀住稲荷神社

小笠原忠忱
[慶応元年(1865年)9月6日、父・豊前国小倉藩小笠原忠幹が死去する。しかし、嫡子の忠忱はわずか4歳という幼年であったうえ、翌年には第二次長州征伐も控えていたため、重臣たちは忠幹の喪を秘した。以後、家老小宮民部島村志津摩らにより藩政は動かされた。第二次長州征伐では、長州藩の攻撃を受け、慶応2年8月には小倉城に火を放って退却した。同年9月、田川郡香春に政庁を設置した。慶応3年1月、長州藩と講和する。
慶応3年(1867年)6月25日、父忠幹の死亡を幕府に届け、家督を継いだ。慶応4年3月、幼少の忠忱に代わり、重臣を上洛させて、新政府に従う姿勢を示した。同年4月7日、新政府に対し、避難していた熊本藩領から本領に戻ることを申請する。  (wikipedia・小笠原忠忱より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図下中央・細川越中守下屋敷左上に小笠原左京大夫(小笠原忠徴)下屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央上・細川越中守下屋敷上に小笠原大膳大夫(小笠原忠幹)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は平住橋南交差点で、カメラ南南西方向江東区東陽5丁目14南西角交差点まで、道路を含む両サイドが小倉藩小笠原家砂川下屋敷になると思われます。(小倉藩小笠原家深川下屋敷跡範囲:江東区東陽5丁目5~14,29)