尼崎藩松平(桜井)家下屋敷跡

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関連リンク – 尼崎藩松平(桜井)家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP806・コマ番号447/553の尼崎藩下屋敷に下記の通り記載されています。
『一、下屋敷 本所小名木澤
 相対替安政六(1859)年三月廿八日 坪数千坪
  和歌山藩徳川家記録、安政六年三月廿八日小名木澤邸之内ヲ深川新大橋向松平遠江守下屋敷ト御相對替ニ相成候
  相対替屋敷書抜、安政六年三月廿八日紀伊殿下屋敷小名木澤四千五百五拾坪之内千坪松平遠江守え、同人下屋敷新大橋向五千坪除紀伊殿え、相対替。』
尼崎藩松平(桜井)家下屋敷地は安政6年から、紀州徳川家の下屋敷になります。]

[紀州徳川家の「江戸御仕入方」については、初め八丁堀に設置、後浜町に移り、安政三(1856)年四月深川小名木沢邸に転じ、同六(1859)年三月また深川万年橋邸に移転した。職員は若山から在勤し、国元仕出の木材・炭などの物品の販売、幕府納炭のことを管理し、兼ねて貸金利殖のことを謀るのが役目であった。  (「35.切絵図考証二二 安藤菊二(PDFファイル:1098.79 KB)」より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(安政5[1858]改正)」(絵図中央上小名木川、万年ハシ右下に松平遠江守(松平忠栄)下屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央右端小名木川、万年ハシ右下に紀伊殿下屋敷が描かれています。これが、萬年橋邸で、その右方向御籾蔵右の紀伊殿下屋敷が小名木沢邸になるのではないかと思います。)

松平忠興
[松平 忠興(まつだいら ただおき)は、江戸時代後期の譜代大名摂津国尼崎藩の第7代(最後の)藩主。尼崎藩桜井松平家10代。官位は従五位下・遠江守、兵庫頭。明治維新子爵
弘化5年(1848年)1月18日、6代藩主・松平忠栄の七男として誕生。
文久元年(1861年)8月6日、父の隠居により家督を譲られる。泊園書院(現・ 関西大学)に学び、慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵された。2月に徳川氏との訣別の証として姓を桜井と改称する。
明治2年(1869年)の版籍奉還で尼崎知藩事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事職を免職された。明治6年(1873年)1月、東京へ移住する。明治10年(1877年)、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者のうちの1人となった。  (wikipedia・松平忠興より)]

桜井松平家と古池跡 : 古池はいかにして「現れた 」か

カメラ位置は万年橋北詰めで、カメラ北東江東区常盤1丁目13までが尼崎藩松平(桜井)家下屋敷跡になると思います。万年橋は江戸時代には隅田川河岸付近に設置されていました。(尼崎藩松平(桜井)家下屋敷跡範囲:江東区常盤1丁目2,4,5,13~18)