マーカーは岩村藩松平(大給)家深川下屋敷跡です。
関連リンク – 岩村藩松平(大給)家上屋敷跡、岩村藩松平(大給)家本所下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP339・コマ番号213/553から岩村藩屋敷の変遷について記載されています。P346・コマ番号217/553「下屋敷 小名木川 深川区東扇橋町」がこの地になります。
松平乗美
[松平 乗美(まつだいら のりよし)は、寛政3年(1791年)、美濃国岩村藩先代藩主・松平乗保の次男として誕生(生年は寛政4年(1792年)3月15日とも)。長兄・乗友が早世したために世子となり、文政9年(1826年)の父の死去により家督を継いだ。
この頃の岩村藩では藩財政が悪化していたため、乗美は父の代からの家老である丹羽瀬清左衛門を用いて知行借上、倹約、新田開発、荒地の開発、桐・桑・杉・茶・栗などの苗の育成と国産所の設置などの財政改革を中心とした藩政改革に着手した。この改革は効果が大きく、藩財政は再建されたが、天保4年(1833年)からの天保の大飢饉による被害や天保5年(1834年)の江戸藩邸の類焼、さらに改革で生産した木綿や絹織物が生産過多で逆に売りさばけなくなったり、改革を担っていた問屋や庄屋がそのために藩から出奔してしまうなどの事情もあって、改革は停滞した。
しかも、この改革は領民に対する負担も大きかったことから、遂に岩村藩内の52か村の代表らは天保8年(1837年)5月、改革の中心人物であった丹羽瀬を21か条にわたって弾劾する書状を岩村藩に突きつけ、乗美が自分らの要求を受け入れなければ丹羽瀬の屋敷を襲って殺すとまで脅迫する有様だったとされている。このため、家老の大野五左衛門の仲介により、乗美は52か村の要求を受け入れて丹羽瀬を蟄居に追い込み、藩政改革も正式に中止した。以後、岩村藩の藩財政はさらに悪化していくことになる。
天保13年(1842年)11月16日、家督を次男・乗喬に譲って隠居する。弘化2年(1845年)8月20日に死去した。享年55。 (wikipedia・松平乗美より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央左・小名木川上に松平能登守(松平乗命)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は江東区扇橋1丁目21南東角交差点で、カメラ北北西方向小名木川までが岩村藩松平(大給)家深川下屋敷跡になると思います。(岩村藩松平(大給)家深川下屋敷跡範囲:江東区扇橋1丁目21)