峰山藩京極家下屋敷跡

マーカーは峰山藩京極家下屋敷跡です。

関連リンク – 丹後峰山藩京極家・村上藩内藤家上屋敷跡(総理大臣官邸)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP880・コマ番号484/553から峰山藩屋敷の変遷について記載されています。P882・コマ番号486/553「下屋敷 本所横川」がこの地になります。

京極高富
[京極 高富(きょうごく たかとみ)は、丹後国峰山藩10代藩主・京極高景の長男として誕生。幼名は啓治郎。
嘉永2年(1849年)3月7日、父高景の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に周防守、主膳正に改める。安政4年(1857年)2月、大番頭に就任する。文久元年(1861年)9月14日、大坂玉造定番に就任する。天誅組の変生野の変鎮圧で功を挙げている。慶応2年(1866年)1月7日、若年寄に就任する。同時に14代将軍徳川家茂から大坂への従軍を命じられる。同年5月25日、第二次長州征討に際し、四国方面軍の取締を命じられる。四国方面軍とは、徳島藩松山藩高松藩などを主力として、海路四国から徳山を経て、山口へ進攻する部隊である。それに伴い、高冨は伊予国松山に陣を構える。
慶応3年(1867年)4月8日、帰府を命じられる。同年6月18日、国内事務取扱を命じられる。同年10月27日、陸軍事務取扱を命じられる。同年12月2日、若年寄兼海軍奉行に就任する。慶応4年(1868年)2月14日、若年寄を退任する。同年閏4月15日、上洛し、新政府へ恭順の姿勢を示すも、佐幕派として見なされ、新政府により謹慎を命じられた。しかし、養嗣子の高陳が養父の名代として既に3月20日に天皇に拝謁していることや、新政府軍に兵を出していることなどが考慮され、同年5月14日に謹慎を許された。直後の5月28日、胸の持病を理由にして、高陳に家督を譲って隠居した。
明治8年(1875年)9月30日、養子高陳が隠居し、再び家督を相続する。  (wikipedia・京極高富より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図下中央・大横川左に京極備中守(京極高富)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は墨田区江東橋5丁目5−5北西角交差点で、カメラ南東方向が峰山藩京極家下屋敷跡になると思います。(峰山藩京極家下屋敷跡範囲:墨田区江東橋5丁目4,5)