平賀源内電機実験の地碑、仙台藩蔵屋敷

マーカーは平賀源内電機実験の地碑です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP944・コマ番号516/553から仙台藩屋敷の変遷について記載されています。P947・コマ番号517/553「下屋敷 深川区清住町」がこの地になります。

平賀源内電機実験の地碑
[所在地 江東区清澄1-2-1(読売江東ビル)
平賀源内享保13年(1728)高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなし、かつ神霊矢口渡の戯作者(げさくしゃ)でもある。平賀源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年(1777)エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行ない安永8年(1780)51歳にて没した。  昭和51年(1976)1月16日 江東区 第31号  (「東京都江東区の歴史 平賀源内電機実験の地」より)]

仙台藩蔵屋敷
[蔵屋敷として深川屋敷があった。東北から運ばれてくる米の貯蔵用倉庫として1698年(元禄11)に隅田川沿いに設置された。今の江東区清澄一丁目の太平洋セメント工場周辺である。当時、深川屋敷には23棟の米蔵があり、10万俵余の米が収容できた。
 仙台藩年貢米とは別に藩士知行米や農民の余剰米を対象に買米制を実施しており、両者併せて年間20-30万石に上る江戸廻米を行なっていた。これを輸送したのが千石船であるが、当初は石巻湊などを出て銚子湊に入り、ここから利根川舟運で江戸に運んでいた。その後、河村瑞賢の東廻航路の開発によって房総半島を迂回して品川湊に入港するようになり、品川から深川までは艀船で米を運んだ。江戸の消費米の四分の一は仙台藩米で賄われたという。
 これらによって得た収入の多くは参勤交代に伴う費用等に当てられた。当時の仙台・江戸間の往復はほぼ片道7泊8日で行われたが、仙台藩の参勤交代は華美に行なわれ、四代藩主の伊達綱村が初めて江戸に向かったときなどは、供の数は3,480人余に及んだという。万事派手であり、江戸在勤中の幕府・諸大名との交際費も多額に上り、仙台藩は実高100万石といわれながら財政はいつも逼迫状況にあった。かりに戊辰戦争で敗れなくとも財政的には破綻していたといわれる。  (「江戸屋敷の先覚者たち – 七十七ビジネス振興財団ホームページ」より)]

東京都立中央図書館隅田川両岸一覧図絵 上隅田川両岸一覧図絵 下」より。
永代橋東岸

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央上方向、大川右に松平陸奥守が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五・1852年)」(絵図左中・仙台掘上に架かる上ノハシの右上、松平陸奥守下屋敷が仙台藩蔵屋敷です。蔵屋敷の北側が深川清住町になります。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町西大工町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884)」(地図四つ切右上・仙台堀川口に架かる上之橋右の浅野工場が仙台藩蔵屋敷跡です。)

平賀源内電気実験の地 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向に平賀源内電機実験の地碑が設置されています。清住町は北側・現清洲橋通りの南側にあった。また、碑が設置されている読売江東ビルやアサノコンクリート深川工場の一画には仙台藩蔵屋敷があった。(仙台藩蔵屋敷跡範囲:江東区清澄1丁目2)

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