戦災殉難者供養之碑・砂村新田六地蔵

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戦災殉難者供養之碑・砂村新田六地蔵
[碑文
【表】
昭和貳拾年 参月拾日?
戰災殉難者供養之碑
起?南砂町一、三丁目

【霊標板】
六地蔵尊再建戰災殉難碑建立奉納者御芳名
(個人名)  (「総務省|一般戦災死没者の追悼|戦災殉難者供養之碑」より)]

[砂村新田六地蔵
 昔、百島(むかしから、四砂小付近一帯は百島とも呼ばれていた)のあたりは、うら哀しく、もの寂しい処であった。砂村川の支流西横川が元〆川に出会う角あたり、横川を背にして小さな、石造六地蔵が東向きに置かれていた。川面をわたる夏の風に繁茂した葦が揺れ、水鳥があわてて空に舞い上ってゆく。
 六地蔵の信仰がはじまったのは、平安末期といわれ、つねに悪業をおかし、六道輪廻転生する衆生を救済するということから一般には寺院の門前や墓地入口に建てられるようになった。砂村六地蔵のように、村はずれや道端にたてられたものは、地蔵菩薩道祖神信仰と結びついて土地の守護神とされたのではなかろうか。なお、ここでいう六道とは、地獄(怒)、餓鬼(欲)、畜生(愚)、修羅(闘争)、人界、天上(喜悦)のことである。六体の地蔵さんは、組合せや持物、印相によって象形のちがいもあり多種多様であるという。
 さて、砂村の六地蔵はいつの時代の誰が安置したものか確かにはわからない。ある人はいう、深川永代寺にあったものをこの辺り水難事故死など災難による死者が多く供養のため移し変えたもの。また或る人はいう、あのあたりに昔、お仕置場があって処刑された罪人の供養のため砂村の石屋さんが頼まれて作ったもので、その背面にどこそこの誰と名が刻まれていたと。またその後、罪をおかし刑場へひかれていく囚人が立ち止り悔悟の祈りを捧げると恐れおののいた気も静まり、心安らかとない収容として死についたという。樹間に烏が翔び交い陰うつな空気が漂い、そのあたり常には静まりかえっていたものと思われる。ただ六地蔵には縁者のあげる香華が絶えなかった。
 江戸中期の古地図をひろげて見ると、永代寺、霊巌寺など当時の有名寺院の境内に六地蔵の名が記してあるが砂村はもとより路傍の六地蔵は記載がない。
 明治維新を前後して毛利候の下屋敷内、今元〆と言われるあたりに、大森方面から海苔の採取を業とする漁師が移住しはじめ謂ゆる浅草海苔の生産に従事した。また百島には、お天神とよばれた秋山総本家から分家が入植して荒地を開拓したので砂村の僻地、六地蔵周辺は急激な発展をみたのである。
 時は経て、明治から大正時代になると砂村の生業も種々雑多、田畑を耕す者、海苔採取も含めて漁に出る者、川舟を使って水を売る人、土や砂利を運搬する回漕店、鳶職、木場が近いせいで川並、後には木材を運送する馬力屋、そして飛車角や宮川などなど、六地蔵の辺にも威勢のいいあんちゃんや、夜ふかしを得意とする二代目がたむろしていても不思議でない。
 さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。
 砂町史談会 資料より  (「東京都江東区の歴史 砂村新田六地蔵」より)]

六地蔵 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が戦災殉難者供養之碑・砂村新田六地蔵祠です。