戦災震災殉難者諸霊位供養之塔(竪川地蔵尊・榎稲荷神社)

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マーカーは榎稲荷神社です。

榎稲荷神社
[榎稲荷神社は、天和3年(1682)菊川の堤に建立、土手稲荷と称していたといいます。その後大久保紀伊守の邸内社となり、境内に林立する榎により榎稲荷大明神と称したといいます。関東大震災の後当地へ移転しました。
●東京都神社名鑑による榎稲荷神社の概要
傍に菊川という川があり、その堤のうちに天和三年(一六八二)二月に当社が建立されたと伝えられる。よって土手稲荷と称した。宝暦年中(一七五一-六四)中風流行し、当社に平癒を祈願し、榎の皮を採り帰るにその効著しかった。祈願を遂げた人びとは講中をつくり社殿を造営した。その後、現在地に移り、大久保紀伊守の邸内社となり、一農家がこれを守護していた。その後、町内で石鳥居、漱水盤を奉納した。万延年間(一八六〇-六一)に隣接の氷川大乗院配下本山修験吉祥院が守護した。いつのころよりか境内に林立する榎により、榎稲荷大明神と称したといわれる。大正大震災にて焼失後、区画整理により現在地に移転した。(東京都神社名鑑より)
●「墨田区史」による榎稲荷神社の概要
一説に天和三年(一六八三)の起立とされる。かつては現在地より少し東方にあって、南北に流れる菊川という小川の土手に面していた。この菊川と大横川にはさまれた一帯は、明暦三年(一六五七)の大火後の本所開拓に当たって、天和三年九月に御仲間組の町屋敷となっているから、あるいはこの時に地守神として祭られたものであろうか。古くは土手稲荷と称していたという。現在地には、関東大震災後の区画整理のときに移転したもので、社殿の左角に二本のえのきがある。(「墨田区史」より)  (「榎稲荷神社|墨田区立川の神社 – 猫の足あと」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図上中央・大横川の左に大久保紀伊守と描かれています。)

[彰義隊の副長、天野八郎忠告が獄中で記した『斃休録』の「大久保紀伊守なる者、東照宮の御旗を持て真先に進みたり。此人年五十ばかり、元大監察を勤めしものなり」という経歴から、彰義隊で戦った「大久保紀伊守」は旗本「大久保紀伊守忠宣」とされています。
徳富蘇峰(猪一郎)も『近世日本国民史』で「彼(忠宣)やまた徳川武士の人たるを辱しめなかった」と記しています。
山崎有信『彰義隊顛末』の戦死者一覧の筆頭に大久保紀伊守の名が見え、篠沢七郎『彰義隊戦闘之始末』によると、この戦いで紀伊守の次男も戦死してしまいました。  (「請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町] | To KAZUSA」より)]

戦災震災殉難者諸霊位供養之塔(竪川地蔵尊)
[地蔵尊の由来
 大東亜戦争中昭和二十年(西暦一、九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に一〇万人と言います。
 攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一、七八三t、被災者数一〇〇万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数一四万人、当、菊川公園に埋めた人四、五一五人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり同氏の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
  昭和五十九年三月十日 
                立川四丁目町会]

榎稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が榎稲荷神社です。

カメラ北北東方向・竪四会館1Fに竪川地蔵尊が祀られています。

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