マーカーは新大橋旧橋標識です。
新大橋
[最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。
橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
新大橋は非常に何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。ファイル:Hiroshige_Atake_sous_une_averse_soudaine.jpg
また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、竪川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。
中央区側より撮影(平成17年(2005年)9月)・wikipedia-photo、1912年完成の旧新大橋・wikipedia-photo、博物館明治村に移築された旧新大橋・wikipedia-photo、東詰公園内にある旧新大橋の橋柱・wikipedia-photo、歌川広重の錦絵とゴッホの模写・wikipedia-photo (wikipedia・新大橋より)]
新大橋の架橋については「東京都中央区京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区の”橋”その(5)」がおすすめ。
「東京都立中央図書館 – 隅田川両岸一覧図絵 上、 隅田川両岸一覧図絵 下」より。
新大橋西岸
新大橋東岸
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸全圖[宝永4 (1707)]」(コマ番号4/5・絵図四つ切左下、隅田川左に隅田川に架かる二番目の橋、旧新大橋跡の新大橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下が旧新大橋跡の新大橋です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図中央左端に旧新大橋跡の新大橋が描かれています。)
[南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌(嘉永4[1851])」・「コマ番号2/5・bunko01_01855_p0002.jpg」(絵図右上に旧新大橋跡の新大橋が描かれています。)
「(内題)東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常磐町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図下隅田川に小名木川上に旧新大橋跡の新大橋が描かれています。)
「東京市日本橋區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市深川區全圖(明治40・1907年)」(地図四つ切左下・隅田川に現在位置の新大橋が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「新大橋三派」(2-12)、「新大橋・三派解説・ページ中央に新大橋、左ページ中程に三派」(2-13)
新大橋三派(拡大図)
[図会手前に新大橋、左に永代橋、右の流れが箱崎川で、描かれる橋が中州に架かる永久橋です。また、永久橋手前右に浜町川河口に架かる川口橋も描かれています。]
絵本江戸土産 – 新大橋 萬年橋 正木の社(拡大図)
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](大はしあたけの夕立・wikipedia-photo)
江戸後期の、旧新大橋跡の新大橋の写真です。
カメラ位置は現新大橋中央部です。
新大橋旧橋標識前(江東区常磐1-6)のカメラで、カメラ西北西方向ガードパイプ傍に新大橋旧橋跡標柱がある。また、カメラ東方向に御籾蔵があった。
カメラ位置は江戸時代に新大橋が架橋された位置付近で、カメラ北北西方向が現在の新大橋です。