新発田藩溝口家下屋敷跡

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溝口直正
[溝口 直正(みぞぐち なおまさ)は、越後国新発田藩11代藩主・溝口直溥の四男として新発田にて誕生した。
慶応3年(1867年)8月28日、直溥の隠居に伴い家督を継ぐ。同年10月、諸大名に上京が命じられるが、幼少のため名代として家老・窪田平兵衛が京都に赴く。同4年2月、藩兵を上京させ御所警衛を行う。のちにこの藩兵は東征軍参加を命じられた。同月、直正は江戸を発ち、翌月に新発田に入る。同年5月、周辺諸藩の圧力もあり、やむなく新発田藩は奥羽越列藩同盟に参加する。しかし領民の蜂起などもあって新発田藩兵の行動は不徹底であり、これを憤った同盟側は新発田城に兵を向け、藩主・直正を下関(現新潟県関川村)の米沢藩本営に呼び出して人質に取ろうとしたが、これまた領民の蜂起にあって直正の下関訪問は阻止された。この間、同盟側の要求を受けて藩兵を同盟軍につけることとなり、新発田城攻撃は回避された。7月、新政府軍が軍艦で領内に上陸すると、直正は家老らと共に新政府軍の軍艦に同乗して柏崎の本営に至り、総督宮に拝謁して三条まで供奉した。これ以後、新発田藩兵は一転して新政府側として行動することとなる。戦争終結後、新発田城には総督府本営が置かれ、藩兵も各地の警衛にあたった。
明治元年(1868年)11月、直正は東京に至り明治天皇に拝謁、12月に従五位下・伯耆守に叙任された。同月、上知された米沢藩などの旧領の預かり支配を命じられる。明治2年(1869年)6月、版籍奉還が容れられ知藩事となる。明治3年(1870年)4月には領内巡視を行う。7月には9万石に及ぶ大規模な村替えを命じられる。この間、積極的な藩政改革が進められるが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により直正は知藩事の職を免ぜられた。  (wikipedia・溝口直正より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五・1852年)」(絵図四つ切左上・溝口主膳正(溝口直溥)下屋敷が描かれています。)

カメラ北方向は新発田藩溝口家下屋敷跡地に建つ、中和公園、区立中和小学校です。