マーカーは東京大空襲・戦災資料センターです。
東京大空襲・戦災資料センター
[1945年(昭和20年)3月10日の未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による東京下町地区を目標にした無差別爆撃(東京大空襲)で、人口過密地帯は火炎地獄と化し、罹災者は100万人をこえて、推定10万人もの尊い命が失われました。3月10日を含め、東京は100回以上もの空襲を受けて、市街地の5割を焼失したのです。(写真リンク:1945年9月、戦災資料センター周辺の航空写真[米軍撮影])
「東京空襲を記録する会」は1970年より、この空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきましたが、1999年に東京都の「平和祈念館」建設計画が凍結となりました。そこで、「記録する会」と財団法人 政治経済研究所は、やむにやまれぬ思いで民間募金を呼びかけ、4000名をこえる方々の協力によって、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかった地に当センターを完成させることができました。用地は一篤志家から無償提供されたものです。
2007年3月には、多くの皆さんの熱いご支援により、さらに増築を実現し、展示を充実させて、修学旅行生など若い世代の「学びの場」としての環境が整いました。(増築が済んだ建物・画像リンク)
特別展示や戦争災害の調査・研究を始めとして、子どもから大人まで、いのちの貴さを基本に、「知っているなら伝えよう、知らないなら学ぼう」の精神で、当センターを大いに活用していただきたいと思います。戦争・空襲の惨禍をふたたび繰り返すまじの決意で、民間人の蒙った戦禍を風化させることなく未来に継承し、平和を願う人たちの交流にも役立ちますようにと、心から願っています。 (「東京大空襲・戦災資料センター/趣旨と沿革」より)]
母子像「戦火の下で」
[説明文
「戦火の下で」
制作 河野 新
原型1978 設置2002.3.10
経緯
河野新さん制作になるこの母子像は、江東区の母親たちが 戦災の死者たちの追悼のためのモニュメントの建立を思い立った時、制作されたものです。センター開館にあたってブロンズ像となり、正面に置かれました。抱きしめた幼い命の無事をひたすら願う母の姿に、あの日の自分を重ね合わす人も多いと思います。
(出典「戦災資料センターから東京大空襲を歩く」より) (「総務省|一般戦災死没者の追悼|母子像「戦火の下で」」より)]
世界の子どもの平和像(東京)
[説明文
世界の子どもの平和像(東京)
平和を育む
目をそむけません
過去の苦しさ いまの世界から
決意します
核兵器も戦争もない二十一世紀をつくることを
走りつづけます
世界の平和を願う歴史のリレーランナーとして
未来へ
「世界の子どもの平和像」は、平和を願う私たち子どもからあなたへ、あなたから未来へのメッセージです。
この子どもの平和像をつくる活動のきっかけは、広島にある「原爆の子の像」の話をきいて感動したアメリカの子どもたちが一九九五年に「子どもの平和像」をたて、「世界中に子どもの平和像をたてたい」とよびかけたことにあります。
私たちは、日本がアジアの国々を侵略していったこと、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎に原爆が投下されたこと、そして南太平洋で核実験の被害にあった第五福竜丸のことなどから、戦争や核兵器の悲惨さ、平和や生命の大切さを学んできました。そして、平和を願うたくさんの人々の思いを受けとってきました。
だから、この平和像に「核兵器と戦争のない二十一世紀を」「ひとりひとりの人権が大切にされる社会を」「差別や貧困のない世界を」という私たちの願いをこめています。
歴史の真実を学び、考えましょう。それは、もっともっと生命が大切にされる未来をつくることにつながるからです。
未来をつくるのは私たち子どもです。
学び、語り、伝え、ともに平和な未来をつくっていきましょう。
二〇〇一年五月五日 世界の子どもの平和像を東京につくる会 (「総務省|一般戦災死没者の追悼|世界の子どもの平和像(東京)」より)]
「東京大空襲・戦災資料センター – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向が東京大空襲・戦災資料センターで、玄関右に母子像「戦火の下で」、左に世界の子どもの平和像(東京)があります。