東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑(黒船橋・越中島橋)

マーカーは東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑(越中島橋)です。

東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑(黒船橋・越中島橋)
[空襲警報は一度解除になりましたが、急に外が明るくなり、物凄い音がして外に火が見えました。
隣組の人たちと外にいた父がいつにない顔で「もうダメだ、早く逃げろ、早くしろ」と、言いながら防空壕へ飛び込んできました。持ち出し用の身の回り品など何も持たずに外に飛び出したら、前の家が燃えていました。
私は大事にしていた花柄の傘を取りに戻ろうとしましたが、母が「ダメ死んじゃう」と後から抱きかかえて引き止めてくれました。それがなかったら、今の私はいなかったでしょう。
「先生に家が焼けたら、臨海小学校へ集まれって言われたよ」と、母に言うと「ダメ死んじゃう」と取り上げません。
当時臨海小学校にはプールがあって、夏は泳げない兵隊たちがここで水泳の練習をしていました。当日は水がなかったようです。ただ鉄筋で出来た建物は燃えないと思って多くの人々が避難してきましたが、猛火に焼かれ、コンクリートの床は人間の油がいつまでも染みていたと後で聞きました。40名いた同級生のその後の消息も、全く分からないんです。
 ※臨界小学校に避難した人々はほぼ全員が焼死したといわれている。
そうするうちにも、どんどん周りから火が飛んできました。父の判断で「焼けている方へ、永代橋の方へ逃げよう、オレについて来い」と、すでに真っ赤に火の手が上がっている方へと歩き出しました。父は関東大震災の時の経験を生かしたのでしょう、この先燃えるに違いない場所を、避けたのです。
東京駅の八重洲口あたりで、道路の脇に蹲っている母子がいました。父が声をかけ手で触れるとそのまま倒れてしまいました。死んでいたのです。
道路が燃えていました。母は下駄と草履でしたが、私たち子供は布のズックの靴だったので、靴が燃えそうで怖かったことを覚えています。
火の中をくぐり抜けて宮城(今の皇居)前にたどりつきました。門前に兵隊さんがいて中に入れてくれません。父たちが交渉して朝になったら前の明治ビルに行く条件で、やっと入れてもらえました。
朝になり、父達が警視庁から一人1個のとろろ昆布を巻いた大豆入りのおにぎりを支給されてきた時の皆の安堵した顔は真っ黒でした。
その後父だけが、家を見に行きました。家の周辺は丸焼けでした。翌朝炊く準備をしていた米が、そのまま黒く焼けていたそうです。
伯母(後藤のおばさん)とそこに養女としてもらわれていた姉わか子(16歳)の二人は、逃げ場を失い、黒船橋のたもとにあった防空壕に逃げ込んで、蒸し焼きになり焼死しているのが発見されました。伯母はかなり焼けていましたが、伯母が姉を庇ったようで姉はあまり焼けていなかったそうです。しかし持っていた印鑑は、人間の油でべたべたになっていたようです。  (「恐ろしかったあの夜 永塚彩子さん – FC2」より)]

[黒船橋より見通せる先には越中島橋が架けられている。何れの橋も先代は昭和5年の架橋であり、関東大震災復興橋梁であった。残念ながら越中島橋は昭和52年、黒船橋も平成2年に架け替えられている。
その越中島橋の北詰には、二基の慰霊碑が佇んでいる。向かって左は「東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑」と刻まれ、黒船橋西詰の慰霊碑と同じ、昭和20年3月10日の犠牲者を祭った碑である。
他方の碑には「大震火災殃死者霊追悼供養塔」と、おどろおどろしい文字が並ぶ。そして戦火に因るものか体躯は黒く煤け、台座を含めた全ての面に発起人、数多賛助者の氏名が並び、その一隅には僅か6行の由来記が刻まれている。
判読のし難い文字列を辿ると、「本供養塔は大正12年9月1日 関東地方大震火災に本町(永代)居住者80余名、大島川一帯、糧秣廠水門(現:大島川水門附近)口等に於ける殃死者多数の霊魂を慰める為、旧六塔婆を廃し六塔を永久に記念し昭和5年9月1日建設す」との意が大筋で読める。碑は戦禍を潜り地元の人々に守られ、建立より80余年を経て健在する。 また昨今は、伝来の震災記念碑等の価値が再評価されている。
 二基の慰霊碑
左:東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑 昭和55年7月1日
右:大震火災殃死者霊追悼供養塔 昭和5年9月1日 何れも永代町の建立
 殃死=横死(おうし)非業の死を遂げること  (「2017年03月10日:碧血の島」より)]

カメラ西北西方向・街路灯支柱とビル手前樹木の間に大震火災殃死者霊追悼供養塔、東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑があります。

大震火災殃死者霊追悼供養塔、東京大空襲 戦災殉難者慰霊碑(Google Map 画像)