松代藩真田家下屋敷跡(佐久間象山砲術塾跡)

マーカー松代藩真田家下屋敷跡(佐久間象山砲術塾跡)です。

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松代藩真田家下屋敷跡(佐久間象山砲術塾跡)
[この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国長野県松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス帝国国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰坂本龍馬加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、江戸幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
 平成21年(2009)3月  江東区教育委員会  (「東京都江東区の歴史 佐久間象山砲術塾跡(信濃国松代藩下屋敷跡)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央に真田信濃守が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五・1852年)」(絵図右上・永代橋左側に真田信濃守下屋敷が松代藩真田家下屋敷跡(佐久間象山砲術塾跡)です。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町西大工町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884)」(地図中央下・小柗(こまつ)町の下周辺が松代藩真田家下屋敷跡です。旧永代橋が1897年完成、地図に描かれた場所から下流に移され、それに伴い松代藩真田家下屋敷跡前の永代通りも路線変更されています。)

カメラ位置座標:35.674627,139.790719 – カメラ東北東方向に佐久間象山砲術塾跡案内板があります。(松代藩真田家下屋敷跡範囲:江東区永代1丁目14,16,17)

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