永代橋

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永代橋
[永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。架橋を行ったのは関東郡代伊奈忠順上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、文化4年8月19日 (旧暦)(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
東京都中央区から(2008年3月)・wikipedia-photo、ライトアップされた永代橋(2008年11月)・wikipedia-photo、1897年完成の旧永代橋・wikipedia-photo   (wikipedia・永代橋より)]

[江戸時代は現在の場所より約100メートルほど上流にあった。創架は元禄9(1696)あるいは同11(1698)年とされ、これ以前は「深川の大渡し」と呼ばれる渡しであった。橋名は古くは島だったことから永代島と呼ばれていた地域に向けて架けられたことに由来するが、5代将軍綱吉の50歳の祝賀を込めたとの説もある。文化4(1807)年には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋桁が落下し、1,500人余りが溺死した。赤穂義士が本所の吉良邸から泉岳寺へ引き上げる時に渡った橋としても有名。  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「永代橋 (えいたいばし)」より)]  

永代橋の架橋については「東京都中央区京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区の”橋”その(6)」がおすすめ。

[江戸で遠島が申し渡されると、直ちに小伝間町牢屋敷に入れられる。 一般の牢舎ではなく遠島予定の者を収容する東口揚屋で流人船の出航を待つ。 流人船はそう頻繁に出るものでなく、伊豆諸島方面行きの罪人を年2,3回の船でまとめて移送するから、流人船が出航するまでの間、ここで待機させられる。流人には流刑先が出発前日まで知らされない。島送り船出航の前日に、囚人は獄庭に集められ、頭髪や髭を整えさせ、糺問所に土下座させる。 囚獄と奉行所から出張って来た与力とで、それぞれが送られる島名が宣告される。流人には紙2帖、船中の防備薬与えられるほか、島での当面の生活の資とするため、金が与えられる。揚座敷に拘禁されていた囚人には金3両、揚屋のものには金1両、が与えられ、百姓囚、平民は金2分、時服1着それに紙、薬が与えられた。
いよいよ出発の朝になると、永代橋の際または霊岸島(または芝金杉橋)から囚人護送用のはしけに乗せられて本船に移される。永代橋から出るのはいかなることがあっても戻って来ることができない囚人、霊岸島または金杉橋の方は、何年かの後には特赦になる可能性のある囚人と決まっていたようだ。
流人船といっても、実は伊豆七島を春・夏・秋と年三回巡廻する五百石積の交易船に便乗するのが普通であった。 船頭以下7,8人で運行されており、流人監視のための幕府船手組の水主同心2名が乗り込んだ。船内は座敷牢の形式になっており、武士階級と女は別囲、一般の罪人は雑居であった。  (「第 16 章 兄弟は遠島処分 – 仁杉八右衛門家」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸之図(文化10・1813年)」(絵図下・隅田川の川口に旧橋の位置の永代橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央左方向、大川に架かる永代橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右下に旧橋の位置の永代橋が描かれています。)
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左端の下側の橋が旧橋の位置の永代橋です。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町西大工町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(隅田川に旧橋の位置の永代橋が描かれています。)

東京市深川區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市深川區全圖(明治40・1907年)」(地図下中央右に現在の位置での永代橋が描かれています。)

東京都立中央図書館隅田川両岸一覧図絵 上隅田川両岸一覧図絵 下」より。
永代橋西岸

永代橋東岸

  
江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「新大橋三派」(2-12)、「新大橋・三派解説・ページ中央に新大橋、左ページ中程に三派」(2-13)、「永代橋」(2-32)
永代橋(拡大図)

[図会は霊岸島から深川方向を描き、左ページ下に日本橋川に架かる豊海橋の上側に永代橋が描かれています。]
[永代橋は明治維新を迎える頃には老朽化していたため、代替となる橋を下流に新たに作る計画が立案された。1897年(明治30年)、道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋が、東京市側は日本橋川を挟んで対岸の現在の場所に再架橋され、それまでの旧い永代橋は廃止された。   (wikipedia・永代橋より)]

新大橋三派(拡大図)

[図会はみつまた(新大橋三派)で、図会手前に新大橋、左に永代橋、右の流れが箱崎川で、描かれる橋が中州に架かる永久橋です。また、永久橋手前右に浜町川河口に架かる川口橋も描かれています。]

絵本江戸土産 – 永代橋(拡大図)

絵本江戸土産 – 永代橋佃田を望む(拡大図)

[図会に永代橋を渡り、越中島 調練場に向かう軍列が描かれています。]

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](wikipedia-photo)

歌川広重・「江戸名所の内」より 佃湾永代橋付近の漁船(永代橋佃沖磯船)(ボストン美術館)

永代橋 – Google Map 画像リンク」「江戸時代の永代橋西詰 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向が永代橋で、カメラ西北西方向が日本橋川(豊海橋)です。江戸時代永代橋は日本橋川の北側にありました。