油堀跡、下之橋跡

マーカーは下之橋跡です。

油堀跡、下之橋跡
[小名木川が開かれ、その北岸に深川村が成立してから約30年後の寛永6年(1629)、小名木川以南の隅田川沿岸に大きな動きがありました。このあたりは隅田川上流からもたらされた土砂により、いくらか土地が高く、「半島状の陸地」がありました。その陸地を開拓して町を造り、漁業を営みたいとの願い出が届けられました。江戸幕府はこの願いを聞いて、月3回の魚介類献上と人や物資運搬の際に役船を調達することを条件に漁師たちの居住を許し、「深川猟師町」が成立しました(当時の史料では生き物を捕えて生業とする人は「猟師」と表していたので、「漁」ではなく「猟」の文字をあてています)。当初は8人の人々が開発の代表だったことから、「藤左衛門町(とうざえもんちょう)」「弥兵衛町(やへえちょ う)」「相川町」「熊井町」などと、人名を町名にして「猟師町八ヶ町」と呼ばれました。現在の江東区清澄・佐賀・福住・永代などの地域にあたります。こうして深川の隅田川河口部に漁師町が造られ、小名木川南岸の開発が進みました。しかし、深川猟師町の周辺は成立から 10 年余り後さらに大きな変化にさらされました。それは寛永18年(1641年)の江戸の大火(桶町火事)が原因でした。、江戸市中の火災のたびに建築用の材木が延焼を促しているとなれば、どこかへ材木置場を移す必要があります。そこで深川が新たな材木置場として選ばれました。江戸市中の日本橋本材木町・神田佐久間町・神田久右衛門町・三十間堀・本八町堀辺の 35 ヶ町の材木商に深川の隅田川沿岸に設けられた材木置場が与えられました。隅田川沿岸の深川猟師町周辺は、こうして材木置場へと大きく変わりました。その時、材木の運搬・貯木のために掘割が開かれました。隅田川に沿って3本の掘割に橋が架けられていますが、北から上之橋・中之橋・下之橋と呼ばれ、いずれの橋も材木問屋の筏(いかだ)や船が通行しやすいように橋台地を高く盛り上げて橋を架けていました(『江戸町方書上』)。これで江戸の「材木置場といえば深川」が定着しました。材木置場の範囲は隅田川から現在の清澄通りの間ということになります。かつて猟師町だった頃にこのあたりに開かれた寺院や江戸市中から移ってきた寺院などが清澄通りの東側に軒を連ねて建立されていました。
その後、深川は、海岸に近く隅田川対岸には日本橋京橋の大問屋街があったことから、江戸の流通の拠点として位置付けられました。そこで、隅田川の河口周辺を、さまざまな物資が集積する「蔵の町」にすることが考えられました。そのため材木置場の移転先がまた課題となり、東方の入り江を埋め立てて、そこへ材木置場を移すことになりました。元禄11年(1698)頃から幕府はこの入り江の埋め立てに着手します。貯木・運搬用の掘割を開き、周辺の造成された土地を日本橋周辺の商人が買い取り、町場が造られていきました。こうして元禄14年(1701)新しい木場が誕生しました。この新たな土地の造成によって、すでに元木場周辺に開かれていた掘割を東へと延伸することになります。こうして開かれた掘割が仙台堀・中之堀・油堀でした。また当時の地図と現在の地図を照合してみると、南北に流れる運河などもこの当時のものが残されています。  (「元木場の掘割─「堀割網」の原型─」より)]

[油堀とは、隅田川東岸沿い、下之橋から木場に至る運河・十五間川の通称である油堀川、亦その周辺の地名です。 元禄年間に掘られた運河で物資の運搬が盛んだった。現在の佐賀町福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された。油堀は堀川と云う名で1970年代半ばまで残っていたが1976年に埋め立てられ、1980年にはその上に首都高速9号深川線が開通した。  (「勝夢酔(小吉)居住地跡 – FC2」より]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央左上方向、永代橋右上方向に下之橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図左端の下付近・永代橋の右上に下ノハシが描かれています。そこから富ヶ岡八幡宮北側の水路が油掘りです。)

カメラ位置は下之橋跡で、油堀跡に首都高深川線が建設されています。

カメラ位置は都道463号線で、カメラ南東方向、北西方向が油堀跡です。

カメラ位置は富岡2丁目7地先で、カメラ西、東方向が油堀跡です。

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