マーカーは波除碑(津波警告の碑)です。
波除碑(津波警告の碑)
[6月になり、国土文化研究所が事務局を担う「江戸東京再発見コンソーシアム」では、新しい舟めぐりコースの運航をはじめました。そのひとつの「深川コース」は、大横川、平久川、仙台堀川、小名木川といった江戸時代以来の深川の堀割を巡る旅です。舟の上からは目にすることが出来ませんが、平久川の平久橋の西詰には、波除碑(津波警告の碑)が残されています。
碑の解説によると、寛政3年(1791)9月4日、深川一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流され、多数の死者、行方不明者が出ました。幕府はこの災害を重視して東の洲崎神社と西の平久橋を結んだ線(ほぼ現在の東京メトロ東西線)から海側の一帯、東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000平方メートル)を買い上げて空き地とし、人が住むことを禁じました。そしてこのことを後世に伝えるため、洲崎神社と平久橋の袂に波除碑を建てたものです。この一帯は、江戸時代初期には海だったものを、その後埋立てて出来た土地でした。
いまでは破損し、誰にも気づかれることなく立っている石塊ですが、東日本大震災を機に、こうした土地の記憶をいまに伝える痕跡を再び辿って見ることも必要ではないかと思います。
それにしても、私が興味を覚えたもう一つは、この石碑が東京都の指定有形文化財に指定された昭和17年9月という日付でした。
国土文化研究所 次長 木村達司 (「平成23年6月の一枚 波除碑(津波警告の碑:東京都江東 … – 建設技術研究所」より)]
[東京都指定有形文化財(歴史資料)
波除碑(なみよけのひ)
所在地 江東区牡丹3 – 33 平久橋西詰地
指 定 昭和17年9月
寛政3年(1791)9月、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5467余坪(約18000平米)を買い上げて空き地とした。そして空き地の両端の北地点に波除碑を2基建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。
碑はほとんど旧状を失っており、特に平久橋碑は上部三分の二を失っている。位置は旧地点を若干移動していると思われる。
建設は寛政6年(1794)頃。碑文は屋代弘賢、品質は伊豆五ケ村石(砂岩)。
総高130.8cm
平成12年3月 設置
東京都教育委員会 (「街に探そう!自然のすがた 身近な津波警告《波除碑》の話」より)]
カメラ北北東方向に波除碑(津波警告の碑)があります。また、その左に弁天町の住人のほとんどが犠牲となった東京大空襲(1945年(昭和20年)3月)の遭難者を供養する戦災殉難者供養塔があります。