マーカーは浄心寺です。
浄心寺
[浄心寺は、元和2年(1612年、徳川2代将軍秀忠の頃)に畔柳助九郎氏が大旦那となり、還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されました。その後、八百屋お七の振り袖火事として知られる江戸の大火により焼失し、現在の地に移転しました。
第二次世界大戦でも空襲に遭い、焼け野原になった中から第23世住職・小池政雄和尚と千代夫人が檀信徒の協力を得て、今日のような復興と発展を遂げました。
政雄和尚は、江戸観音札所の第10番に指定されている「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像をはじめとする阿弥陀三尊像、四天王像、虚空蔵菩薩像等、仏像の建立に力を注がれました。
戦争で受けた傷から右足をなくし「一本足の和尚さん」と呼ばれながらも、明るく精力的に活躍され、多くの人々に慕われていましたが、平成17年9月に逝去いたしました。 (「浄土宗・浄心寺(東京都文京区)概要」より)]
[日蓮宗の法苑山浄心寺は、万治元年(1658)通遠院日義の開山で、四代将軍徳川家綱の乳母三沢局の冥福のために創建されました。万治三年(1660)には身延弘通所と定められ、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師の随一といわれた名刹です。境内には町奉行矢部定謙の墓や、洲崎遊郭従業婦の供養塔等がある。 (「猫のあしあと」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央右上方向に浄心寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図中央左下に浄心寺が描かれています。)
カメラ北北東方向が浄心寺南門です。
カメラ東方向が浄心寺西参道です。
矢部定謙
[矢部 定謙(やべ さだのり、寛政元年(1789年) – 天保13年7月24日(1842年8月29日))は、江戸時代後期の旗本、幕臣である。通称は彦五郎。位階は従五位下。
天保2年(1831年)に堺奉行、同4年(1833年)に大坂西町奉行となる。おりしも当時凶作に見舞われ、矢部は飢饉対策に努める。この時矢部は元与力で学者であった大塩平八郎と会合を持ったため、矢部と大塩が深い信頼関係にあったと見られていたが、矢部が飢饉対策は大塩の意見とは食い違うものであった。このほか在任中には竹島事件の裁定を行っている。天保7年(1836年)に勘定奉行に就任するため江戸にうつった。
矢部の離任後間もない天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱が発生した。大塩が幕府に提出しようとした建議書8カ条のうち、6カ条は「国を乱す「奸侫」」である矢部を弾劾するものであった。この中では矢部が様々な不正を行い、口封じのために承認を殺害したとされている。しかし矢部がこの時点で処分されることはなかった。天保9年(1838年)からは西丸留守居となり、大御所徳川家斉に仕えた。
天保11年から、老中水野忠邦の主導により武蔵国川越藩、出羽国庄内藩、越後国長岡藩の三方領知替えが問題となっていた。天保12年(1841年)4月28日 (旧暦)に矢部は江戸南町奉行となり、老中の命により検証を行った。結果として領知替えの必要性を認めず、再吟味を具申した。翌年7月に転封は将軍徳川家慶の裁断により中止となった。定謙没後、出羽庄内藩復領の恩人として祭神に祀られる契機となる。また水野が推し進めた天保の改革に北町奉行遠山景元と協同して対抗する。当時の価格騰貴に対し、水野や藤田東湖らが株仲間の廃止を求めた際にも、一部の商人の華美な生活態度にも問題があるものの、物流上の様々な制約が最大の一因であり、急激な株仲間の廃止は、却って混乱を招いて人々を苦しめると主張した。
天保12年(1841年)12月、矢部は江戸町奉行を解任された。大阪町奉行時代の不正、江戸町奉行時代のお救い米買い付け事件の調査不正などが理由であったが、主因は水野と対立したために目付鳥居耀蔵の策謀により罷免されたと見られている。取調中に無実を友人に訴えたことが問題となり、同13年(1842年)、伊勢国桑名藩預かりとなった。お預から三ヶ月後、矢部は病死した。抗議のため自ら絶食したという説もある。没後、株仲間の急激な廃止政策が経済界に混乱をもたらし、却って人々を苦しめる事になったために、定謙の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨ら幕末期の官僚からは、その非業の死を惜しまれる事になった。その後、改革の失敗と不正発覚により水野、鳥居は失脚、養子の鶴松が幕府への出仕を認められ、矢部家は再興された。 (wikipedia・矢部定謙より)]