マーカーは深川不動堂旧本堂です。
深川不動堂
[成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂。江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となった。永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められたものである。明治14年(1881年)に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れた。永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年(1896年)に再興され、名跡を継いだ。なお、地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味である。
人情深川ご利益通り・wikipedia-photo
旧本堂・wikipedia-photo
新本堂・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、成田山東京別院深川不動堂の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・成田山東京別院深川不動堂より)]
深川不動堂旧本堂
[桁行5間、梁間6間、一重入母屋造、瓦葺、千鳥破風付の本堂です。
文久年間(1861~64)の作で、もとは千葉県印旛郡本埜村にある天台宗寺院龍腹寺の地蔵堂でした。不動堂の本堂が東京大空襲によって焼失したため、本山成田山新勝寺主導のもとで再建が行われました。
しかし、戦後の厳しい木材統制の中、新築は認められなかったため、龍腹寺地蔵堂を移築することになり、昭和26年に竣工しました。地蔵堂が選ばれた理由は、新勝寺の安政の本堂(現釈迦堂:国指定重要文化財)と同じ工匠(八木紋次郎)の作と考えられたためです。
建築的な特徴としては、ほぼ正方形であること、入口が2間分と広くとられていることがあげられます。これは新勝寺釈迦堂も同様で、ここに同一工匠の特徴がよく示されています。 (「深川不動堂旧本堂|江東区」より)]
「深川不動堂ホームページ」
深川不動堂境内案内図
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図右端中央下に永代寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図四つ切左下に永代寺が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「永代寺山下」(18-9)、「其二」(18-10)、「其三」(18-11)
「江戸名所図会」(拡大図)
永代寺山下(拡大図)
永代寺山下(拡大図)
永代寺山下(拡大図)
「深川不動堂赤門 – Google Map 画像リンク」、「成田山 深川不動堂 – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向が成田山東京別院深川不動堂参道です。
深川不動堂旧本堂前のストリートビューです。
深川不動堂新本堂前のストリートビューです。