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深川門前仲町
[深川は、3代将軍徳川家光の時代から富岡八幡宮の門前町として発達し、明暦の大火ののちに木場が置かれて商業開港地域となり、深川岡場所も設置され花街となる。江戸の辰巳の方角にあることより、ここの深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ、いきで気風が良いとされる。
もとは下総国葛飾郡の内で、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現在の江戸川・旧江戸川)より西の地域を武蔵国に編入した際に武蔵国葛飾郡となる。両国橋が架けられたのちに江戸図にも載せられて江戸に組み込まれるようになり、町地が多く起立して1818年の「旧江戸朱引内図」でも朱引内に含まれている。一方、町地以外の部分は代官所管地の深川本村が置かれた。
材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構える。1702年(元禄15年)の大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行は富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会議を開いたと伝えられる。曲亭馬琴はこの地で生まれ、平賀源内や松尾芭蕉、伊能忠敬なども深川に住んだ。 (wikipedia・深川区より)]
[深川門前仲町を略して、門仲、仲町といった。富岡八幡宮の門前町で賑わっているところで、深川(辰巳)芸者で有名。深川には岡場所(吉原以外の遊所)が多く、仲町、新地、櫓下、裾継、石場、佃、土橋を「深川七場所」と呼んだ。なかでも、仲町はもっとも高級として知られていたが、深川七場所どこも二朱(2/16両、一万円)で遊べたという。
八幡宮参道入り口にあった一の鳥居(門仲交差点西)から永代寺・富岡八幡宮前に向かって永代寺門前仲町、永代寺門前山本町、永代寺門前町、永代寺門前東町などと江戸時代は街が並んでいます。
特に有名な料理茶屋として、八幡境内の松本、伊勢屋の二軒茶屋が知られており、天明時代(1781~1789)には向島の葛西太郎、それから大黒屋孫四郎、真崎の甲子(きのえね)屋、百川楼と、ここ深川の二軒茶屋が五指に入る第一級の名店だったという。 (「落語「おさん茂兵衛」の舞台を歩く」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」
「深川永代通り図」は「歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 念願の「門前仲町」に立つ」が参考になります。
カメラ位置は門前仲町交差点で、カメラ南東方向が深川門前仲町になります。
深川八幡祭り(水掛け祭)本祭りの御鳳輦(ごほうれん)の渡御の門前仲町交差点付近のカメラです。