熊本藩細川家下屋敷(平井新田塩浜跡)

マーカーは平井新田塩浜跡案内板です。

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熊本藩細川家下屋敷(平井新田塩浜跡)
[「国立国会図書館デジタルコレクション – 深川十万坪ヨリ中川海手迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」を見ると、熊本藩細川家下屋敷跡(六万坪)の南側、洲崎弁天から砂村新田(松平大和守・川越藩松平家抱屋敷)までの間が平井新田となっています。その西側部分が平井新田塩浜跡で、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」では、洲崎弁天から細川越中守平井新田下屋敷までが平井新田塩浜跡になると思います。「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「1896~1909年」地図では西平井町、東平井町で、一帯が「洲崎養魚場」「飯田養魚場」となっています。]

平井新田塩浜跡
[案内板所在地 江東区東陽4-11-28 (江東区役所)
明和2年(1765)、平井満右衛門により州崎弁天から砂村新田にいたる干潟が埋め立てられ、平井新田が成立した。平井新田は塩浜にする計画で開発され、明和3年には塩浜が築かれ製塩が開始された。
寛政5年(1793)の「分限江戸大絵図」には塩浜の位置や規模、様子が描かれている。それによると、塩浜は平井新田の西部に位置しており、海から海水を導く「塩浜汐引ホリ」としるされた水路や、鹹水(濃い塩水)をつくる「汐溜」、海水を煮つめて塩をつくる「塩カマ(竈)」の様子がうかがえる。平井新田は塩浜にする予定で開発されたものであったが、潮の便が悪く永続せず、塩浜はまもなく廃止された。しかし、塩浜という地名は残り、「平井新田字塩浜耕地」の呼称は明治24年(1891)この地域が深川区西平井町に編入されるまで続いた。
場所 – 東陽3、5の東部及び4の西部  (「平井新田塩浜跡|江東区」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(寛政4 [1792])」(コマ番号5/6・絵図右下に「塩濵」が描かれています。)

平井新田塩浜跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向石垣上に平井新田塩浜跡案内板が設置されています。