マーカーは生実藩森川家下屋敷跡です。
関連リンク – 生実藩森川家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP441・コマ番号265/553から生実藩屋敷の変遷について記載されています。P446・コマ番号267/553「下屋敷 本所猿江」がこの地になります。
森川俊徳
[森川 俊徳(もりかわ としのり)は、下総生実藩の第11代藩主。
天保15年(1844年)、伊勢亀山藩の第9代藩主・石川総紀の次男として生まれる。安政5年(1858年)に生実藩の第10代藩主・森川俊位が死去したため、その養子として家督を継いで第11代藩主となり、11月23日に従五位下・出羽守に叙位・任官する。万延元年(1860年)4月2日に日光祭祀奉行に任じられた。
文久2年(1862年)10月24日に死去した。享年19。跡を末期養子の俊方が継いだ。 (wikipedia・森川俊徳より)]
森川俊方
[森川 俊方(もりかわ としかた)は、下総生実藩の第12代(最後)の藩主。
嘉永3年(1850年)1月、出羽松山藩の第6代藩主酒井忠方の六男として生まれる。文久2年(1862年)12月16日、生実藩の第11代藩主森川俊徳が死去したため、その末期養子となって家督を継いだ。12月23日、将軍徳川家茂に拝謁する。12月28日、従五位下・内膳正に叙位・任官する。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、2月に家臣を上京させて新政府に恭順を誓い、4月16日に上洛した。閏4月29日に帰国の許可を得た。10月7日に東京に入り、12月には市中取締役を務めている。明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で生実知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で知藩事を免職された。
明治10年(1877年)11月7日に死去した。享年28。 (wikipedia・森川俊方より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央下方向・大横川左に森川出羽守(森川俊徳)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は江東区住吉1丁目5北東角交差点で、カメラ南南西方向が生実藩森川家下屋敷跡になると思います。(生実藩森川家下屋敷跡範囲:江東区住吉1丁目5,6)