マーカーは江東区立高森公園です。
関連リンク – 田安徳川家上屋敷(玉川上水樋管)跡、田安徳川家箱崎下屋敷跡、田安徳川家下屋敷跡(田安・鎮護稲荷神社神社)、田安徳川家下屋敷跡(根生院)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP566・コマ番号327/553から田安徳川家屋敷の変遷について記載されています。P567・コマ番号327/553「下屋敷 深川高橋」がこの地になります。
[田安徳川家の初代田安宗武は英名をもって聞えた八代将軍吉宗の第二子。享保六年(一七二一)江戸城田安門内に邸地を与えられて一家を興し、田安家を称して新たに将軍家の藩塀となった。この箱崎と深川高橋とに下屋敷を置いた。 (「22.切絵図考証九 安藤菊二(PDFファイル:943.37 KB)」より)]
田安家領
[延享3年(1746年)に拝領した10万石は幕府直轄領から分与され、御料としての扱いを受ける。内訳は甲斐国3万石をはじめ武蔵国1万7000石、下総国・播磨国にそれぞれ1万2000石、摂津国・和泉国にそれぞれ1万3000石。
甲斐国3万石は山梨郡・八代郡の63か村で、山梨郡一町田中村に陣屋(田中陣屋、山梨市)が設置された。天保3年(1832年)には武蔵国の領地替で山梨・八代両郡と巨摩郡から41か村が加えられる。甲斐国の田安家領では、大小切税法など甲斐独自の税制は維持されたが、たびたび収奪強化が行われて領民との対立を招き、寛政4年(1792年)には田安家領において太枡騒動が起こっている。幕末には上知が検討されたが、明治維新まで存続し、明治2年(1869年)には田安家支配に反対する領民の県庁側の主導により新政府に編入され、田安家領は消滅した(田安家領一揆)。 (wikipedia・田安徳川家#田安家領より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図中央左小名木川上に田安殿下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は森下四丁目交差点で、カメラ南西方向江東区森下3丁目12までが田安徳川家深川下屋敷跡になると思います。(田安徳川家深川下屋敷跡範囲:江東区森下3丁目12,13)
カメラ南方向は田安徳川家深川下屋敷跡の中心にあると思われる高森公園です。