神戸藩本多家林町下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP517・コマ番号302/553から神戸藩屋敷の変遷について記載されています。P519・コマ番号303/553「下屋敷 本所二ッ目」がこの地になります。

本多忠統
[本多 忠統(ほんだ ただむね)は、河内西代藩主。のち伊勢神戸藩初代藩主となる。江戸幕府若年寄として、享保の改革期における幕政に参与した。神戸藩本多家2代。「猗蘭侯」と称し、書画や儒学に通じた文人大名としても知られた。
西代藩主時代
元禄4年(1691年)6月18日、近江国河内国で1万石を領した本多忠恒の次男として生まれる。兄の仙千代が早世したために世子となり、宝永元年(1704年)に父が死去したため、家督を継いだ。
宝永4年(1707年)3月23日、第5代将軍・徳川綱吉の小姓となり、綱吉死後の宝永6年(1709年)2月21日まで務めた。正徳元年(1711年)には河内国西代(大阪府河内長野市西代町)に陣屋を定めている。享保4年(1719年)9月3日に大番頭に任じられた後、享保9年(1724年)12月23日には奏者番寺社奉行を兼任する形で任命され、享保10年(1725年)6月11日には若年寄に任じられて、第8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与することとなった。享保15年(1730年)4月9日には勝手掛に任命された。
神戸藩主時代
享保17年(1732年)4月1日、伊勢神戸藩に移封となる。享保の改革では、松平乗邑と共に吉宗を助けて改革を推進した。その一方で享保の大飢饉において神戸藩が大被害を受けると、窮民救済に努めている。延享2年(1745年)、吉宗の命令で徳川家重付の家臣となり、同時に5000石加増と神戸城築城も認められ、1万5000石の大名となる。
延享4年(1747年)に江戸城内で肥後熊本藩主・細川宗孝板倉勝該に斬殺されるという事件が起こると、その解決や細川氏存続に尽力している。寛延3年(1750年)、病気を理由に若年寄を辞任し、11月19日には五男の忠永に家督を譲って隠居した。宝暦7年(1757年)2月29日に死去。享年67。
当時においては、茶人としても有名で、茶名を「宗範」と称した。  (wikipedia・本多忠統より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 南本所大川ヨリ横川マデ堅川ヨリ小名木川ノ間 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切右上・三ッ目橋の左下方向に本多大和守と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五・1852年)」(絵図中央上・津軽出雲守上屋敷左方向に本多伊予守(本多忠寛)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は墨田区立川3丁目12北東角交差点で、カメラ南西方向墨田区立川3丁目7までが神戸藩本多家下屋敷跡になると思います。(神戸藩本多家林町下屋敷跡範囲:墨田区立川3丁目7,12,13)