マーカーは紀伊国屋文左衛門の墓です。
成等院
[成等院は、江東区三好にある浄土宗の寺院です。成等院は、寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建、万治元年(1658)霊巌寺と共に当地へ移転したといいます。第二次世界大戦の戦火に遭い全焼、材木豪商紀伊国屋文左衛門の石碑を作る話しがきっかけとなり、紀文の石碑とともに昭和33年再建したといいます。
成等院の縁起
寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建、万治元年(1658)に現在地に移転してきた。戦災に遭い、寺は全焼、区画整理の段階で境内が縮小されると判断した前住職は檀家の大方を兼務していた四谷西念寺に移す。区画整理は計画通りには進まず、境内は残るが寺は再建されず、紀文の石碑を作る話がきっかけとなり、昭和33年(1958)に石碑とともに完成したという。材木豪商であった紀文は晩年は没落し、この寺に小さな墓を残した。昭和30年ごろ、和歌山出身の材木商を中心とする紀文会から、紀文の墓を守りたいとの申し出があり、墓地が整備され、和歌山県知事などからも寄付があった。紀文会は紀文講を開いていたが、現在は休止状態であるという(「寺社めぐり30」)。(江東区の民俗深川編より) (「猫のあしあと – 成等院|江東区三好にある浄土宗の寺院」より)]
紀伊国屋文左衛門
[紀伊國屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん、寛文9年(1669年)? – 享保19年4月24日(1734年5月26日)?)は、日本の江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。生没年もはっきりしないなど、人物伝には不明な点が多く、半ば伝説上の人物である。「架空の人物である」とする説もあるが、実在したとする説が主流である。
紀伊国湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀へ住み、江戸幕府の側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。また、幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く、五代将軍徳川綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用が停止されてしまった為大きな損失を被い商売への意欲を失ってしまった、と言われている。晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。「千山」の俳号を名乗った。享保19年(1734年)に死去したとされる。享年66。紀伊國屋は2代目文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退してしまった。八丁堀に広大な邸を構え、奈良屋茂左衛門勝豊との吉原における豪遊の逸話が伝わっている。巨利を築く伝説は河村瑞賢とも融合している。
晩年
全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業の失敗により、以降は乞食同然の生活となり哀れな晩年を送った、と言われている。 異説も存在し、綱吉逝去の翌年宝永7年(1710年)に紀伊国屋材木店を閉店した後も、享保2年(1717年)に深川富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納したり 大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用に全財産を寄進したりと、潤沢な資産を持っていたとも言われる。
墓所
●成等院(東京都江東区)
●勝楽寺(和歌山県有田郡湯浅町)
戒名 – 帰性融相信士
和歌山県有田郡湯浅町には、松下幸之助が建てた紀伊國屋文左衛門生誕の碑がある。 (wikipedia・紀伊國屋文左衛門より)]
[江戸中期の江戸の豪商。没年66歳といわれる。紀文大尽とも。紀伊国の出身で,現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定される。両親は不詳。はじめ紀州のみかんを江戸に回漕し,江戸から塩鮭を上方にもたらして巨利を得,当初の資本を蓄積したと伝えられる。貞享年間(1684~88)20歳のころ江戸に出,京橋本八丁堀3丁目に居所を構え,一町四方の屋敷に大きな材木問屋を開き,また材木置場を深川木場に置いた。江戸は火災が多く,その都度大建築が行われ,材木問屋は繁盛を極めた。なかでも紀文は老中柳沢吉保らと結託し,御用達商人として利権を得て巨利を占めた。元禄11(1698)年2月の上野寛永寺根本中堂の普請造営に関与し,その用材請負に成功,駿府(静岡県)の豪商松木新左衛門と組んで,一挙に金50万両の巨利を得たことは有名。また御用達として長崎貿易にも関係し,亜鉛(とたん)を原価で仕入れている。亜鉛の営業はリスクの多い商いとされていたが,材木とともに建築用材として利益の大きな商品であった。同14年以降,鋳銭事業を請け負ったといわれるが詳らかでない。 ところが元禄末以降,深川の材木置場のたびたびの火災による損害や,幕閣要人との不正などもあって失脚し,正徳年間(1711~16)には材木問屋を廃業。浅草寺内慈昌院地内に移り,次いで深川八幡の一の鳥居北側に隠棲し,道具類の売り食いをする一方,風流な俳諧の生活に生涯を過ごした。その気質は闊達で豪快,任侠をこととし,千金を投じて吉原の大門を閉め独占するなどの豪遊があった。取り巻きにも俳人の榎本其角ら一流の文化人がついていた。事業も豪快,利益も巨額,浪費もまたすさまじかったことが,江戸っ子を広くひきつけ,日夜の噂の種になった。このことは幕府の勘定方役人の供応と,その財力についての信用を得るための演出とも考えられ,紀文個人の私生活は意外と質素なものがあったようだ。<参考文献>上山勘太郎『実伝紀伊国屋文左衛門』,『紀伊国屋文左衛門』(『南紀徳川史』),竹内誠「紀伊国屋文左衛門考証」(津田秀夫編『近世国家の成立過程』),安藤精一「紀伊国屋文左衛門」(『歴史教育』15巻11号),中田易直「紀伊国屋文左衛門」(『金融ジャーナル』1974年11月号) (中田易直) (「紀伊国屋文左衛門 とは – コトバンク 」より)]
「紀伊国屋文左衛門之碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ北西方向・扉奥に紀伊国屋文左衛門の墓と碑があります。