綾部藩九鬼家下屋敷跡

マーカーは綾部藩九鬼家下屋敷跡です。

関連リンク – 綾部藩九鬼家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP817・コマ番号452/553から綾部藩屋敷の変遷について記載されています。P818・コマ番号453/553「下屋敷 本所五本松 南葛飾郡大島町」がこの地になります。

九鬼隆都
[九鬼 隆都(くき たかひろ)は、丹波国綾部藩7代藩主・九鬼隆郷の次男として誕生。
先代藩主で兄の隆度の養子となる。文政4年(1821年)12月1日、11代将軍徳川家斉に拝謁する。文政5年(1822年)閏1月24日、養父隆度の隠居により、家督を相続した。文政6年12月16日、従五位下大隅守に叙任した。後に式部少輔に改める。
藩主としては有能で、佐藤信淵や奥山弘平らを招聘して農業政策を中心とした藩政改革に取り組み、さらに山鹿素水を招いて軍事の改革も行なった。弘化4年(1847年)には木綿会所を創設して専売制を実施し、藩財政をいくらかは再建することに成功した。この藩政における手腕は幕府にも高く評価され、安政2年(1855年)には幕府講武所総裁に任じられた。講武所における兵学の主軸が山鹿流となったのは、隆都が山鹿素水を通じた関係で、講武所頭取兼兵学師範役に、山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音を推薦したことによる。
文久元年(1861年)6月10日、隠居し、長男隆備に家督を譲った慶応4年(1868年)7月27日、江戸から綾部に移住する許可を得る。明治3年10月、東京に移る。  (wikipedia・九鬼隆都より)]

九鬼隆備
[九鬼 隆備(くき たかとも)は、江戸時代後期の大名。丹波国綾部藩10代(最後の)藩主。
9代藩主・九鬼隆都の長男として誕生。
嘉永6年(1853年)12月15日、13代将軍徳川家定に拝謁する。文久元年(1861年)6月10日、父隆都の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下大隅守に叙任する。文久3年3月30日、幕府から京都の警備を命じられる。元治元年(1864年)2月、京都警備のために上洛し、3月、孝明天皇に拝謁する。同年5月5日、従五位上に昇進する。禁門の変では御所を警備している。同年8月、帰藩する。藩政においては藩校・進徳館を篤信館と改名し、その翌年には藩内6箇所に郷学校を設立して庶民教育に尽力した。これは後に、明治政府による近代化教育の先駆けとなった。
慶応3年(1867年)、幕府が大政奉還を行なうと、いち早く新政府側に帰順する。翌々年の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となる。  (wikipedia・九鬼隆備より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図四つ切左下・小名木下に九鬼大隅守(九鬼隆備)下屋敷が描かれています。)

カメラ南南東方向は東京都立墨東特別支援学校で、この付近が綾部藩九鬼家下屋敷跡になると思われます。