肥後新田藩細川家深川下屋敷跡

マーカーは肥後新田藩細川家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP575・コマ番号331/553から高瀬藩(肥後新田藩)屋敷の変遷について記載されています。P577・コマ番号332/553「一、下屋敷 南本所小名木川端」がこの地です。

細川利重
[細川 利重(ほそかわ とししげ)は、肥後新田藩の初代藩主。
正保3年(1647年)12月15日、熊本藩主・細川光尚(光利)の次男として生まれる。万治3年(1660年)12月に従五位下、若狭守に叙任する。寛文2年(1662年)3月、兄・綱利から5000石を与えられた。寛文6年(1666年)7月には綱利から3万5000石を加増され、熊本新田藩主として立藩した。その後は幕府の江戸勅使接待役などを務めた。
貞享4年(1687年)8月15日に死去した。享年42。跡を長男の利昌が継いだ。
江戸郊外の戸越周辺に領地と抱屋敷(下屋敷)を持っていた(現在の戸越公園)が、この屋敷内の泉水の水源として、玉川上水から屋敷まで長大な水路(戸越上水)を開削した。細川家の水路管理は数年で廃されたが、翌年、品川の民間からの請願により、民間管理の下で存続・流路延長されることとなり、品川用水として品川各地の生活・農業用水となった。  (wikipedia・細川利重より)]

「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図中央左上に細川能登守(細川利用)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は森下五丁目交差点で、カメラ北方向菊川三丁目交差点まで、道路を含む両サイドが肥後新田藩細川家深川下屋敷跡になると思います。(肥後新田藩細川家深川下屋敷跡範囲:江東区森下4丁目10~14,江東区森下5丁目17~20)