マーカーは要津寺です。
要津寺
[臨済宗妙心寺派の要津寺は、東光山と号します。慶安年間(1648-1651)に下総国関宿藩の初代牧野成貞が、父牧野儀成を開基として僧東鉄が本郷に創建、東光山乾徳寺と号していました。その後元禄4年(1691)牧野家下屋敷内であった当地に再興、成儀の戒名から要津寺と名づけられました。三世雪中庵寥太が門前に芭蕉庵を再興したため、関係の石碑がたくさん造立されている。
常陸笠間藩牧野家墓所
常陸国笠間藩主牧野家は、成貞に始まります。成貞は徳川綱吉に仕え、側用人となり、綱吉が度々成貞邸に訪れたというほどに信頼された人物でした。三代後に常陸笠間に移封され、以後廃藩にいたるまで笠間藩主として存続しました。明治維新以後に跡を継いだ貞寧は、本所区緑町(現緑二丁目・亀沢一丁目)に住み、本所小学校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域の社会発展のためにも貢献しました。その墓所のある要津寺は、慶安年中に牧野成儀を開基として本郷に創建されました。成貞が元禄4年(1691年)に下屋敷の一部(現在地の一部)を寄進して寺を移し、寺号を成貞寺としましたが、後に成儀の法名を採り、要津寺と改めました。現在も代々の藩主が眠る牧野家の墓所は周囲よりも一段高い土台の上に石組をめぐらせ、正面に三つ葉柏の家紋と「牧野家代々之墓」と刻まれた墓碑、前面に4基の燈籠が置かれています。 (墨田区教育委員会) (「要津寺|墨田区千歳にある臨済宗妙心寺派寺院 – 猫の足あと」より)]]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図左上・六間堀左に要津寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 南本所大川ヨリ横川マデ堅川ヨリ小名木川ノ間 : 天保一一年八月ノ形」
カメラ北北西方向が要津寺山門です。