釜屋跡碑

マーカーはカメラ位置です。

釜屋跡
[小名木川の北側を通る道路は“釜屋堀通り”と名付けられ, また この通りに面した 大島橋の脇には“釜屋堀公園”があって, ここには“釜屋跡”の碑も建っているなど, この付近に かなり規模の大きい 釜屋の鋳物工場があったことを示している。
釜屋跡
太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六 釜七と称し 寛永17年今の滋賀県から港区にきてまも なくこの付近に住い 釜六は明治時代まで 釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ なべかまの日 用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した   昭和33年10月1日   江東区第十九号  (「渡し碑コレクション/釜屋の渡し跡 」より)]

[鍋釜のほか、梵鐘など金属製品を鋳造する技術者たちを鋳物師といいます。江戸時代、辻村(現在の栗東市辻)の鋳物師は、北は出羽国秋田県)から南は周防国山口県)まで全国各地に出職・出店して活躍していました。なかでも、寛永17年(1640)、江戸田町に、その後、深川に出店した田中七右衛門と、いとこである太田六右衛門の二人は、釜七・釜六と呼ばれるようになり、代々にわたって鋳物業を営みました。享保2年(1717)には、ともに江戸幕府の「御成先鍋釜御用」を命じられ、辻村を代表する鋳物師として知られるようになります。彼らの名は、江戸時代後期の長者番付にもたびたび見られるようになりました。釜六の代表的な作品には、像高2メートル以上に及ぶ回向院東京都墨田区)の銅造阿弥陀如来坐像、浅草寺(東京都台東区)の時の鐘と呼ばれる梵鐘などがあります。鍋釜などだけでなく、複雑な形状をもつ仏像などにも高い技量を示していたのです。  (「釜六 – 広報りっとう」より)]

カメラ北東方向に釜屋跡碑があります。

釜屋跡碑(Google Map 画像)

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