マーカーは長島藩増山家深川下屋敷跡です。
関連リンク – 長島藩増山家上屋敷跡、長島藩増山家下(中)屋敷
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP653・コマ番号370/553から長島藩屋敷の変遷について記載されています。P656・コマ番号372/553「下屋敷 亀戸十間川」がこの地になります。
増山正寧
[増山 正寧(ましやま まさやす)は、江戸時代後期の大名。伊勢長島藩の第6代藩主。長島藩増山家7代。官位 従五位下、弾正少輔
天明5年(1785年)10月1日、第5代藩主・増山正賢の長男として江戸で生まれる。享和元年(1801年)7月5日、父の隠居で家督を継ぐ。幼少時から聡明で知られており、文政5年(1822年)9月3日には若年寄に任じられた。藩政においては儒学者・中島作十郎らを招聘して藩士子弟の教育化や文治の発展に尽力している。
父・正賢(雪斎)の影響を受け、雪園と号して画作をしている。作品数は少ないが、沈南蘋風の花鳥画を得意とした。また漢詩も嗜み、菊池五山の『五山堂詩話』にも作品が掲載されている。
しかし度重なる水害で大損害を蒙ったり、9人の息子全員に先立たれたりと、不幸も相次いだ。天保13年(1842年)3月22日に病気により若年寄を辞任し、同年11月26日に死去した。享年58。婿養子の正修が跡を継いだ。 (wikipedia・増山正寧より)]
増山正修
[増山 正修(ましやま まさなお)は、文政2年(1819年)12月7日、出羽庄内藩主・酒井忠器の次男として生まれる。第6代藩主・正寧の嫡子・正直が早世したため、婿養子となる。天保13年(1842年)、正寧の死去により跡を継いだ。1847年9月には日光祭祀奉行を務めている。
幕末期に入ると佐幕派の立場を貫く。元治元年(1864年)からの長州征伐では京都・大坂の警備を担当し、翌年4月には若年寄に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも、最初は幕府側に与して抵抗の姿勢を示していたが、隣藩の伊勢亀山藩をはじめ、伊勢国内の藩のほとんどが新政府に帰順したため、涙ながらに新政府に帰順し、藩軍を奥羽や北越に出兵させることになった。しかし幕府側に協力していた姿勢を新政府側から警戒され、このとき赤報隊の相楽総三によって軍資金という名目で3,000両を強奪されたという。
正修も正寧と同じく、4男5女と多くの子女に恵まれたが、廃嫡された正方と五女・八十子以外は全て早世するという不幸に見舞われた。このため、明治2年(1869年)1月18日に正修が死去した後は、養嗣子の正同が跡を継ぐこととなった。享年51。 (wikipedia・増山正修より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 深川十万坪ヨリ中川海手迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切右下・洲崎神社上に増山弾正少輔(増山正寧)抱屋敷が描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央上・細川越中守下屋敷右上に増山河内守(増山正修)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は沢海橋東詰交差点で、カメラ東方向江東区東陽3丁目17付近までの、永代通りを含む両サイドが長島藩増山家深川下屋敷跡になると思われます。(長島藩増山家深川下屋敷跡範囲:江東区東陽3丁目1~12,17~21)