マーカーは長州藩毛利家木場下屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP721・コマ番号404/553から山口藩屋敷の変遷について記載されています。P726・コマ番号407/553「街並屋敷 深川鶴保町」がこの地になります。
毛利敬親
[毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。
家督相続以前
敬親は文政2年(1819年)2月10日、毛利親著の長子で世襲家老家一門八家の一つである福原家当主・福原房純の養嗣子である福原房昌(のちの毛利斉元)の長子として生まれた。同文政2年8月28日に房昌は毛利本家に戻り、9月10日に毛利斉煕の養子となって毛利教元に改名、11月11日に斉元と改名して、後に第11代藩主となる。幼名は猶之進といった。のちに教元を名乗っていた父から偏諱を与えられて教明(のりあき)と名乗る。
天保7年(1836年)6月12日、教明は萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸にいたとき、俗に「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込み、見分けがつかないほど荒廃したために、御客屋に避難した。
家督相続
洪水があって3か月とたたない天保7年(1836年)9月8日に父が死去し、その跡を継いで第12代藩主となった毛利斉広も江戸幕府への手続きが終わってからわずか20日足らずで死去した。
教明に第8代藩主毛利治親の姻族田安徳川家から養子縁組の話があったり、斉広に教明より年長の異母弟の信順がいたりしたものの、教明が斉広の養子となって天保8年(1837年)に家督を継いだ。同年、第12代将軍・徳川家慶の偏諱を与えられて教明から慶親に改名した(「親」の字は祖父・親著に由来する)。家督相続に当たり、斉広の長女都美姫を正室とすることが取り決められていたが、都美姫は当時数え5歳とまだ幼少だったため、正式な婚儀は10年後の弘化4年(1847年)に執り行われた。
藩政改革
天保9年(1838年)に萩に入り、翌年より質素倹約と貨幣流通の改正を行う。村田清風を登用して藩政改革を断行、村田の死後は村田とともに藩政改革を担った坪井九右衛門を登用した。天保12年(1841年)、江戸に文武修業の場である藩校有備館を建設、領内の実態調査を実施し天保14年(1843年)には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも努めた。敬親の改革はこれだけに留まらず、嘉永2年(1849年)に国許の藩校である明倫館の改革をも断行した。
第一次長州征伐
嘉永6年(1853年)、アメリカの提督マシュー・ペリーの黒船が来航すると相模国周辺の警備に当たった。安政5年(1858年)8月、密勅を受け「尊王」に尽力することとなった。同安政5年、坪井九右衛門を引退させ、周布政之助らを登用する。また、藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。以後、敬親は周布を重用し藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制を導入する改革を開始した。
文久元年(1861年)、長井雅楽を登用し航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を模索するが政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって、長井の政略は失敗した。この後、藩論は周布や桂小五郎らが主導する攘夷へと大きく方針を転換した。文久2年(1862年)7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年(1863年)4月には藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転させ(山口移鎮)、5月に外国船の打ち払いを開始したがアメリカ・フランスの軍艦からの報復攻撃を受けた。同文久3年の「八月十八日の政変」により長州藩は京を追われた。翌元治元年(1864年)6月、池田屋事件で多くの長州藩士を含む志士らが会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛されるにおよび、長州藩は京に出兵し7月には禁門の変を引き起こした。この長州藩の暴挙に対して、朝廷は幕府に長州征討を命じ、8月には敬親の官位を剥奪した。さらに同8月には、英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来し、敗北する(下関戦争)。第一次長州征伐が開始されると、国司親相・益田親施・福原元僴ら3家老を切腹させ恭順し、10月に敬親は萩に謹慎した。
尊王攘夷から尊王開国、薩長同盟と倒幕
慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太ら俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行する(功山寺挙兵)。これにより正義派(倒幕派)政権が成立すると、高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備して、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同慶応2年8月の幕長戦争(第二次長州征伐)にも勝利した。慶応3年(1867年)、イギリスとの関係を構築し、10月には討幕の密勅を受けた。そして同慶応3年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して上洛、王政復古の大号令を成功させる。敬親は慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。
晩年と最期
明治2年(1869年)1月、敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請した。6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した。明治4年(1871年)3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。 (wikipedia・毛利敬親より)]
「国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図上中央左・木場上に松平大膳大夫(毛利敬親)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は平久川・鶴歩橋東詰めで、カメラ北東方向、東側が木場親水公園、北側が仙台堀川までが長州藩毛利家木場下屋敷跡になると思います。(長州藩毛利家木場下屋敷跡範囲:江東区木場3丁目1~14)