マーカーは間宮林蔵の墓です。
間宮林蔵の墓
[間宮林蔵は茨城県の出身で、享和元年(1801)伊能忠敬に測量術を学びました。文化5年(1808)から翌年にかけ、樺太(サハリン)全土を探検し、樺太が離島であることを明らかにしました。後にこの海峡は、間宮海峡(タタール海峡)と名付けられました。
晩年は、深川蛤町(門前仲町付近)に住み、天保15年(1844)2月65歳(70歳という説もある)で没し、本立院(江東区平野1-14-7)に葬られました。林蔵の墓は、本立院の墓地(江東区平野2‐7‐8)であったところにあり、本立院とは少し離れています。 (「深川・清澄白河駅周辺 – 江東区」より)]
[間宮林蔵墓
間宮林蔵は、安永9年(1780、一説に安永4年)、常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保15(1844)年に深川蛤(はまぐり)町の家で没しました。名は倫宗(ともむね)といい。伊能忠敬に測量を学び、寛政12年(1800)年に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。文化5(1808)年、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した林蔵は翌年7月2日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。この15ヵ月間におよぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
平成2年2月1日 江東区教育委員会 (「深川七福神巡り 後半☆円珠院~富岡八幡宮☆2014/01/11」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図右上・日本橋通三丁目下に箔屋丁が描かれています。)
カメラ西方向が間宮林蔵の墓所です。
間宮林蔵
[間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) – 天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、江戸幕府隠密をつとめた役人であった。
常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の農民の子に生まれる。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の末裔。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった間宮は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、南千島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地を測量した。文化3年(1806年)、択捉島の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下たちに行わせた同島襲撃に巻き込まれた。文化4年(1807年)4月下旬、フォボストフ襲撃事件に遭遇。文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索。間宮はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。文化6年(1809年)、樺太が島であることを確認した松田が帰ったあと、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、樺太人から聞いた、何らかの役所が存在するという町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、樺太人らと共に海峡を渡って黒竜江下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。
のち文化8年(1811年)、ゴローニン事件の発生に遭遇。文政11年(1828年)には勘定奉行・村垣定行の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。これを探検家が隠密に転身したかのように解釈する向きがあるがそもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、単に隠密としての諜報活動の場が変わったに過ぎない。石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告し検挙に至らせる(竹島事件)。変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしている。浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋への潜入に成功している。ちなみに後に間宮は「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐している。
また、シーボルト事件を幕府に密告したとされている。天文方・高橋景保は間宮にとって大師匠にあたる高橋至時の息子であり、儒教道徳においては許し難い行動でありさすがは冷酷な隠密であるという非難がなされた。しかしこれは誤りで、当時、外国人との交通は届出しなければならず景保はこれを破ってシーボルトとやりとりしており、シーボルトから景保宛の書簡に間宮宛の包みも入っていたので林蔵は規定通り届け出たところ、景保とシーボルトの関わりが明らかになったという。
水戸藩へも出入りし、川路聖謨らと交友する。徳川斉昭や藤田東湖にも献策。
晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。梅毒を死因とする説もある。
1904年(明治37年)4月22日、贈正五位。
林蔵とアイヌ人女性との間に生まれた娘の子孫が現在でも北海道に在住している。間宮林蔵顕彰会によると郷土史研究家の調査で子孫と確認された。
蝦夷地測量
伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度があがったという。忠敬がスケジュールの都合上全ての蝦夷地を測量できなかったとき、残りの蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、蝦夷以北の地図は最終的に忠敬の測量図と間宮の測量図を合体させたものになったという。 (wikipedia・間宮林蔵より)]