マーカーは雄松院です。
雄松院
[浄土宗寺院の雄松院は、雄誉上人が開基となり、寛永4年(1627)霊巌寺の開山堂として創建したといいます。豪商奈良屋茂左衛門の過去帳や、松尾芭蕉門人の女流俳人渡会園女の墓があります。 (「猫のあしあと – 雄松院|江東区白河にある浄土宗の寺院」より)]
奈良屋茂左衛門
[奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸の材木商。通称奈良茂(ならも)。姓は神田。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間(1624年-1644年)以降、代々江戸深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。
『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。4代目勝豊(寛文2年(1662年)? – 正徳4年6月13日(1714年7月24日))は2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の宇野屋に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火や日光東照宮の改築、将軍徳川綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得る。勝豊の子である5代目広璘(元禄8年(1695年) – 享保10年9月3日(1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。6代目勝屋は5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも延享元年には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正の頃まで千住で質屋を営んでいたと言われる。 (wikipedia・奈良屋茂左衛門より)]
カメラ西方向が雄松院山門です。
[江戸中期の江戸の豪商。一般に奈良茂という。姓は神田氏。紀伊国屋文左衛門と吉原などで派手な遊興を争った奈良茂は,この4代茂左衛門勝豊。法名安休。父母は江戸の小商人。幼少のころ江戸の材木屋に使われ,商売を覚えた。元禄前代には独立して小店舗を持ち,材木丸太の商いを始める。天和3(1683)年5月日光に数次の大地震があって,東照宮が倒壊したため,その修復工事の請負のことがあった際,狡猾な手段を使い,請負に成功,巨利を占め,元禄期(1688~1704)には江戸屈指の材木問屋になった。江戸は火災が多く材木商売が繁昌し,一代にして巨額の資本を蓄積した。当時奈良茂は幕府の勘定方役人との関係を深めるため,吉原などの社交場で豪遊することがあり,江戸市民に巨額な富と事業の盛大さを印象づけた。その様子はのちの文学や随筆の世界(『江戸真砂六十帖』など)に記されている。60歳代で奇病のため世を去るが,そのとき多額の遺産を残した。遺言状によれば,家屋敷・有金・預ケ金の合計は金13万2530両。これを長男の5代茂左衛門に金7万390両,次男安左衛門に金5万70両,妻に3000両,親類に5130両,手代らに3640両を配分している。当代としては極めて多額の遺産である。そして2人の息子に幕府相手の事業は困難であるから,土地と貸家による収入で生活するよう親心を示した。息子たちは何もすることがないので,あるいは芝居に入れあげ,吉原などで遊興し,書画・骨董に大半を浪費してしまった。なお,4代目と5代目奈良茂が混同されて伝えられる場合が多い。墓地は東京・深川霊巌寺別院雄松院にある。<参考文献>『神田家文書』(国立国文学研究資料館史料館蔵),『東京市史稿』産業編10,鶴岡実枝子『「奈良茂家」考』(『史料館研究紀要』8号),中田易直「商人の経済生活」(『江戸風俗』3巻) (中田易直) (「奈良屋茂左衛門(4代) とは – コトバンク 」より)]