マーカーは館山藩稲葉家下屋敷跡です。
関連リンク – 館山藩稲葉家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP592・コマ番号340/553から館山藩屋敷の変遷について記載されています。P593・コマ番号340/553「中屋敷 本所猿江」がこの地になります。
稲葉正巳
[稲葉 正巳(いなば まさみ)は、文政3年(1820年)2月7日、父安房館山藩第3代藩主稲葉正盛の死により家督を相続する。天保3年(1832年)6月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。文久2年(1862年)、若年寄に就任する。元治元年(1864年)には外国御用取扱勝手掛・海陸備向取扱となり、神戸海軍操練所設立に尽力する。同年、若年寄を辞任して隠居、家督を養子の正善(大岡忠恕の次男)に譲った。翌慶応元年(1865年)には若年寄に再び任じられ、幕府海軍の軍制整備を担当する。徳川慶喜に重用され、慶応2年(1866年)、陸軍奉行、老中格、海軍総裁に進む。明治元年(1868年)に全ての幕府役職を辞任して新政府に恭順した。 (wikipedia・稲葉正巳より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図四つ切左下・猿江御材木蔵右上に稲葉兵部少(大)輔(稲葉正巳)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は四ツ目通り、東京都江東区猿江2丁目9南東角(地下鉄 半蔵門線 住吉駅)交差点で、カメラ西方向道路を含む両サイドが館山藩稲葉家下屋敷跡になると思われます。(館山藩稲葉家下屋敷跡範囲:江東区猿江2丁目6~11)