高崎藩大河内松平家深川下屋敷跡

マーカーは高崎藩大河内松平家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP544・コマ番号316/553から高崎藩屋敷の変遷について記載されています。P553・コマ番号320/553「下屋敷 深川船大工町」がこの地になります。

松平輝貞
[松平 輝貞(まつだいら てるさだ)は、江戸時代中期の大名。側用人老中格大河内松平家上野高崎藩主では初代。高崎藩系大河内松平家2代。
武蔵川越藩主・松平輝綱の六男。延宝2年(1674年)に武綱と名乗り、天和2年(1682年)6月23日、元服と同時に輝貞と改名した。輝綱の弟で松平信綱の五男である養父信興は、当初養子として旗本松平信定(信綱の四男)の子である斐章を養子としており、将軍御目見なども済ませていた。しかし、斐章は元禄2年(1689年)に廃嫡され、代わって嫡子となったのが輝貞である。元禄4年(1691年)、家督を相続する。のちに輝貞は斐章の弟である輝規を養子とする。
家督相続以前より5代将軍徳川綱吉小姓側衆として仕え、初代の側用人に昇る。重用され、幾度か加増を受け、最終的に7万2000石を安堵される。しかし徳川家宣が6代将軍になると、家宣は綱吉側近を排除する政策を打ち出した。輝貞も側用人を免職され、越後国村上に転封、事実上左遷された。のちに徳川吉宗が8代将軍になると享保2年(1717年)、再び高崎に復帰し、同時に家格も溜詰格に昇格した。さらに享保15年(1730年)には老中格に任命された。経験と実務能力を評価されたとされ、重用された上での老中格としての活動期間は長期にわたることとなる。
延享4年(1747年)に死去した。墓地は東叡山明王院(東京都台東区)、のち平林寺に改葬された。  (wikipedia・松平輝貞より)]

国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図上中央・小名木川左、戸田因幡守下屋敷左上に松平右京亮(松平輝聴)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は清澄公園北西交差点で、カメラ南東方向に高崎藩大河内松平家下屋敷跡があったと思われます。