マーカーは高田藩榊原家深川下屋敷跡です。
関連リンク – 高田藩榊原家上屋敷跡、高田藩榊原家中屋敷跡(都立岩崎邸庭園)、高田藩榊原家砂村下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP562・コマ番号325/553から高田藩屋敷の変遷について記載されています。P566・コマ番号327/553「抱屋敷 深川久右衛門町」がこの地になります。
榊原政敬
[榊原 政敬(さかきばら まさたか)は、榊原政礼(高勝院・伊織・越後国高田藩3代藩主・榊原政令の三男)の長男。弘化2年(1845年)2月4日生まれともされる。文久元年(1861年)、先代5代藩主だった叔父・榊原政愛が死去し家督を継ぐ。
慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、彦根藩と共に芸州口の先鋒を命じられる。しかし、旧式の軍装だったこともあり、近代装備を備えた長州藩兵に敗れ、開幕以来の徳川家先鋒の面目を失った。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、当初態度を曖昧にしていたが、官軍が迫ると領内にいた幕府歩兵隊を追放、恭順の姿勢を示した。長岡藩・会津藩討伐の先鋒を命じられ、東北各地を転戦した。恭順を拒否した藩士は脱藩後、神木隊を組織し、後に彰義隊に合力した。戊辰戦争終結後、降伏した会津藩士の御預を命じられる。藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士についても新政府からの給費はごく僅かであったため、藩費によって手厚く待遇した。御預中に死亡した会津藩士の墓地は現在でも新潟県上越市内にあり、「会津墓地」と呼ばれて地元有志の手によって護持されている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で高田知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官された。 (wikipedia・榊原政敬より)]
深川平富町 一・二丁目
[1869(明治2)年、深川三左衛門屋敷、深川伯隆屋敷、深川佐賀町代地、深川入船町が合併し、深川平富町一・二丁目として起立。町名の由来は不明だが、恐らく深川平久町と深川富岡門前東仲町の間に位置していたからということか。1872(明治5)年、越後高田藩榊原氏、伊勢桑名藩松平氏下屋敷を合併。 (「【深川①042】深川平富町 | 江戸町巡り」より)]
深川佃町
[切絵図には富岡八幡宮の南で、越後高田藩榊原式部大輔下屋敷、阿波徳島藩蜂須賀阿波守下屋敷に隣接している。 (「【深川①043】深川佃町 | 江戸町巡り」より)]
「国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図四つ切左上・富ケ岡八幡宮左方向端に榊原式部大輔(榊原政愛)下屋敷が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十五 深川区全図 – 公益財団法人 特別 …」(地図四つ切右下・富岡八幡宮右方向、深川佃町上、深川平富町一丁目が高田藩榊原家下屋敷跡になります。)
カメラ位置は江東区牡丹3丁目18-1地先交差点で、カメラ東南東方向一帯が高田藩榊原家下屋敷跡になると思います。