高田藩榊原家砂村下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP562・コマ番号325/553から高田藩屋敷の変遷について記載されています。P566・コマ番号327/553「抱屋敷 深川海邊新田」がこの地になります。

榊原政永
[榊原 政永(さかきばら まさなが)は、江戸時代中期の大名。越後国高田藩初代藩主。官位は従四位下・侍従、右京大夫。榊原家9代当主。ただし、本来の初代藩主・9代当主であった異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立され、公式には同一人物とされた。
元文元年(1736年)6月1日、姫路藩主・榊原政岑の次男として誕生。生母は坂田氏。幼名は富次郎。初名は政従。その後、政純(兄の名)、忠宝、政次、政一、政永(隠居後)と改名する。
寛保元年(1741年)、政岑は8代将軍・徳川吉宗から強制隠居と蟄居を命じられ、家督は嫡男・小平太政純が継いだが、さらに姫路から高田へ転封となった。政岑は寛保3年(1743年)に没した。
延享元年(1744年)12月11日、小平太政純が病死した。小平太は兄とはいえ富次郎とは1歳しか違わず、当時数え10歳であった。幼少のため将軍御目見も果たしておらず、世継も定めていなかった。末期養子が認められる年齢でもなかったため、榊原家は幕閣から内密の了承を得て、弟の富次郎政従を小平太政純とすり替えることにした。
寛延3年(1750年)10月1日、富次郎は小平太政純として9代将軍・徳川家重に御目見した。同年12月18日、従五位下・式部大輔に叙任する。以降、宝暦4年(1754年)従四位下、天明4年(1784年)侍従、寛政元年(1789年)右京大夫と官位を重ねた。
寛政元年(1789年)5月10日に隠居し、跡を次男・政敦に譲る。隠居後、右京大夫を称する。文化4年12月29日(1808年1月26日)死去。  (wikipedia・榊原政永より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図中央左端・小名木川下に榊原式部大輔(榊原政敬)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 南本所羅漢寺ヨリ中川迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切左下・羅漢寺下に榊原式部大輔(榊原政愛)と記述されています。)

カメラ位置は城東署 進開橋交番前交差点で、カメラ東方向住宅団地内が高田藩榊原家砂村下屋敷跡になると思います。(高田藩榊原家砂村下屋敷跡範囲:江東区大島4丁目1,2)